インタビュー 第1回
三浦勇雄
第1回 審査員特別賞 受賞
今も「追いかけている」という感覚の中で作家を続けています

自分の作品に対する客観的な評価を知りたかった
この賞との出会いは大学四年生のときです。文芸部の先輩が「なんだか新しい新人賞ができたらしいよ」と第1回MF文庫Jライトノベル新人賞のことを教えてくれたのが始まりでした(『神様家族』の巻末に載っていた募集要項)。
今でこそ当たり前になりつつありますが、当時〝投稿者全員に評価シートの発送〟というのは非常に珍しく、一も二もなく飛びつきました。当落の如何にかかわらず、自分の作品に対する客観的な評価を知ることができる、というのはとても魅力的でした。
投稿者時代に一番心がけていたのは、とにかく結末まで書く、ということです。
自分は非常に気の短い人間で、何か月もかけて同じ作品に取り組んでいると、だんだんとその作品に飽きてしまいます。その間にも別のアイデアが浮かんだりして、無性にそちらを書きたくなってくる。けれど二作品を並行して執筆できるほど器用でもない。
結局どうしていたかというと、飽きた作品は短期間で一気に、強引に完結させていました。飽きたからといってそれを放りっぱなしにしているのも気持ち悪かったし、未完のままだと次の作品にも身が入らなかったので。 当時は深く考えてのことではありませんでしたが、〝とにかく完結させる〟ことが、飽きやすい自分が長く執筆活動を続けるための手段だったのかもしれません。
こんなんで俺、本当に作家になれるのか?
中学一年生の頃から小説を書き始め、中学三年生の頃から新人賞への投稿を始めました。
中学から高校までは学校に行って、部活をやって、帰宅後に小説を書く、という生活を続けていました。といっても一年に長編を一本、短編を数本というペースです。筆が遅いのは昔からなんですごめんなさい。
大学では文芸部に所属し、そこで発行していた部誌(数か月に一度、五十部程度を無料配布)に何かしら寄稿していました。ほとんどが短編だったのですが、一度だけ、およそ一年間くらい長編を連載したことがあります。果たしてあれを部員以外に完読した人は存在するのでしょうか……。
大学に入ってからは長い間、新人賞への投稿は控えていました。理由は卒業後の進路に迷っていたためです。今まで新人賞の類に送った原稿は箸にも棒にもかからず、こんなんで俺、本当に作家になれるのか?――と。
吹っ切れたのは大学四年生になってからです。ぎりぎりまで考えた結果、自分がなりたいものは作家以外にあり得ない、と腹が据わりました。そしてこのとき折よく出会ったのが前述の第1回MF文庫Jライトノベル新人賞でした。
そうして第1回の第一次予備審査に投稿し、結果は二次選考で落選。その後、卒論を書きながら新しい原稿も書き、同じ第1回の第三次審査に投稿(3月締め切り)。卒業後に受賞のお知らせをいただいたという次第です。卒論のほうは卒業がぎりぎり認められるC判定でした(つまりひどい出来だった)。
第1回の第一次予備審査に送った原稿は二次選考で落選しましたが、そのすぐ後に編集部の方からお電話をいただきました。
「未熟ながらも光るものを感じました。今はどんなものを書いていますか?」
どうやら落選した作品でも、編集部の方の目に留まれば、このように連絡をいただけるみたいです。ちなみにこのときの電話の相手が現在の担当さんです。
僕はわかりやすく浮かれました。落選とはいえ、生まれて初めて一次選考を突破し、さらに編集部の方から連絡をいただけたのですから。それはもう、有頂天になりました。
しかし直後に第一次予備審査の佳作受賞者のことを知り、すっかり鼻をへし折られました。
日日日さんです(勝手に名前出してすみません)。
日日日さんは当時現役の高校生で、MF文庫J以外にも複数の新人賞で同時受賞をしていました。
恐ろしいくらいの敗北感でした。そしてまだプロにもなってないくせに、馬鹿みたいにはしゃいでいる自分が恥ずかしくなりました。ただただ悔しかった。たぶんこの悔しさがあったからこそ、卒論と並行して原稿を書くということができたのだと思います。
第三次予備審査で受賞したときは「追いついたぞこの野郎!」と喜びましたが、ええ、まったく全然これっぽっちも追いついておりません。もはや対象は日日日さんだけに限らず、今も「追いかけている」という感覚の中で作家を続けています。
本はひとりでつくるものではない
受賞が決まってデビューするまでの間で、担当さんと打ち合わせをし、原稿を直していくうちに、自分の中で〝改稿〟というものへの認識ががらりと変わりました。
それまでの僕は、改稿とは「誤字脱字を直す」もの――文章の体裁を整える程度のものだと思い込んでいました。これがとんだ大間違いで。
デビュー作は担当さんと何度も打ち合わせを重ね、展開からキャラクターの言動に至るまで、隅々までに手を加えました。「こんなにたくさん直さなきゃいけないくらい、俺の小説は駄目駄目なのか……」と愕然としたことをよく覚えています。
改稿とは正しくは「作品をより面白くする」ために行うものです。当たり前だろ何言ってんだこいつ、と思われるかもしれませんが、あの頃の僕はこの「面白くする」ということを根本的にわかっていなかったんです。愚かにも。
投稿作だけに限らず、〝初稿〟なんていうものはとても世に出せる代物ではありません。大規模な改稿を何度も繰り返してようやく読める物、ひいては売り物になります。そのことを真の意味で学ばせていただきました。
受賞作が発売されたときは、もちろん浮かれましたし、書店に立ち寄る度にそこで売られている自分の本を眺めては悦に入ったりしてました。ただその一方で、大きな不安にも駆られていました。
担当さんから予め言われていたのは〝三か月ペースの刊行〟。受賞作の改稿に半年以上かけていた自分にとって、それは途方もないことに思え、本当にこの先大丈夫なのかとおびえておりました。
結論を言うと、口が裂けても大丈夫だったとは言えません。担当さんと絵師さん――その他にもたくさんの関係者の尽力がなかったら、僕はたぶん終わっていた。
本はひとりで作るものではない、と実感することばかりでした。
受賞作も代表作も根っこは同じ
僕はアイデアの引き出しが少ないです。頭もあまり良くはありません。下手に凝ったことをしようとすると途端に物語が破綻します。
だから早い段階でそれは諦め、ただ真っ直ぐに書くことに専念しました。主人公がぼろぼろになりながらも、がむしゃらに前に進めるような物語、展開、シチュエーション。それを書くことだけに集中しました。受賞作のシリーズだけではなく、次作の『聖剣の刀鍛冶』も同様です。ずっと同じことだけを書き続けてきました。
繰り返しになりますが、どちらの作品も根っこは同じです。もしもこの根っこがブレてしまったら自分は失敗する、という予感も何処かにあったのかもしれません。
違いを挙げるとすれば〝小道具〟を使うようになったということでしょうか。
受賞作の『上等。』シリーズは、作者が用意したシチュエーションにキャラクターを放り込み、その中で如何に動いてもらうか、ということに頭を使った物語でした。
次作の『聖剣の刀鍛冶』は、それに加えて〝刀鍛冶〟や〝聖剣と魔剣〟といったキーワード――〝小道具〟を用い、どうやって物語を盛り上げるかというところに頭を使いました。この点が両者の大きな違いだったと思います。
毎回戦うつもりで読んでいます
当時は革新的だった〝評価シート〟も〝年に複数回の審査〟も、今では珍しいものではなくなりました。なのでMF文庫Jライトノベル新人賞ならではのメリット、というものは厳密に言うとないのかもしれません(他の方のインタビューでメリットを語られていたらすみません)。
なのでメリット云々は抜きにして話すと……僕は第6回から審査員をさせていただいています。
最終選考にまで勝ち上がってきた作品たちを読むときは、必ず緊張します。「絶対に負けないぞ」と気合を入れてから読み始めます。何故なら油断すると投稿作が持つ熱量にやられそうになってしまうからです。毎回戦うつもりで読んでいます。
投稿、お待ちしております。最終選考で戦いましょう。
三浦勇雄(みうら・いさお)
2005年の第1回MF文庫Jライトノベル新人賞にて、審査員特別賞『クリスマス上等。』でデビュー。2シリーズ目の『聖剣の刀鍛冶(ブラックスミス)』が大ヒットし、アニメ化をはじめ、数々のメディアミックスを果たす。第6回よりMF文庫Jライトノベル新人賞の審査員を務める。
