さがら総はラノベの国の王子様である。
デビュー作にして代表作である『変態王子と笑わない猫。』はMF文庫Jライトノベル新人賞の最優秀賞を受賞。我々と同じ世代、しかもラブコメを主戦場とする作家の中では頭一つ以上突き出たエリートといえる(ちなみに私はMFの新人賞は最低のD判定で、評価シートで唯一高い評価が付いていた項目は『誤字脱字が少ない』だった)。
しかし私は以前、彼の口からこんな言葉を聞いたことがある。
「傲慢に聞こえるかもしれませんが、デビュー作がヒットするのも苦しいんです……」
では、さがら総は『変態王子と笑わない猫。』のアニメ化後に何をしたか?
ガガガ文庫から発表した『さびしがりやのロリフェラトゥ』は意欲作ではあったがシリーズ化を想定していないようだったし、『クオリディア・コード』の各種ノベライズも、私から見ると、アニメ脚本の副産物のように見えてしまう。
本作の言葉を借りれば、
「さがら先生なら、もっとすごいものが書けると思うんだよ」
という気持ちになった。
だがこれは逆に豊かな才能の証明でもある。アニメの脚本を書けて、ノベライズも自分で出すことができて、いろんなレーベルからそれまでと違った作風のラノベも出せる。こんなことができる作家が他に何人いるだろう?
今、ラノベ作家と呼ばれた人達は次々に仕事を失っている。
ベテランは何を書けばいいのかわからないと喘ぎ、編集者は何を出せば当たるかわからないと嘆く。
かつてこの業界は単純だった。売れているものの真似をすればよかったのだ。圧倒的な力を持つ天才が流行を生み出し、それ以外の者達は必死に天才達の模倣をして自分に才能があるように振る舞って見せれば何とかなった。
だがそんな時代は終わった。
新人賞というシステムは完全に破綻した。増えすぎた模倣作がラノベ売り場を地雷原に変えた。それに嫌気がさした天才達は一人、また一人とこの業界から去って行った。
そして栄華を誇った王国は荒廃し、民は苦しみに喘ぐ(私もかなり苦しんだ)。
しかし恵まれた才能を持っているがゆえに、恵まれた出自であるがゆえに、さがら総も苦しんでいたのかもしれない。
この時期のさがら総の作品の中で最も彼の内面を表しているのは『未来の僕らのためのソナタ』のように私には思える。
漫画の原作者という立場だったが、才能というものにどのように向き合っていけばよいのかという葛藤を見事に表現している。
私はこの『才能』というものこそ、さがら総が本当に書きたがっているものだと感じた。
そして本作において、さがら総は『才能』というテーマをより赤裸々な形で描き出すことに挑戦している。
塾講師とライトノベル作家を兼業する主人公は、どちらの仕事も行き詰まりを感じている。才能があるが故にどちらの世界からも抜けられず、しかし誰よりも自分がその才能を信じることができずに苦しんでいる……まるでどこかの誰かのように。
だが本作においてさらに特筆すべきは、塾講師という、ラノベ主人公としては珍しい職業におけるその圧倒的なリアリティであろう。
塾講師の同僚や上司は言うに及ばず、その塾に通う小学生や中学生といったロ……生き生きとした子供達の声や体温が、見事にラノベの文体によって表現されている。
さがら総が実際に塾講師をしていたかどうかは問題ではない。「実際に体験しないとこんなこと書けないだろ!?」と思わせるほどの文章を書いていることが重要なのだ。
『見下ろすと、小さな身体が、俺のジャケットの内側にすっぽりと埋まっている。
なるほど小学五年生の頭は、成人男性の腹にジャストフィットするようだな。』
ここからは明確に幼女の、しかも小学五年生女子という非常に具体的な年代の身長を感じることができる。その連想として、重さや、熱や、匂いさえも。
ロリに対するリアリティ(私はこれを『ロリアリティ』と呼んでいる)が、私を含む他の作品とは明らかに違うのである。圧倒的なロリアリティが、彼の文章にはある。「実際に体験しないとこんなこと書けないだろ!? ちょっと大丈夫なの!? 犯罪とかやってないよね!?」と思わず心配してしまうほどの。やってないよね?
そして本作を読み終わった読者は、
「この子たちをもっと見たい! 塾講師になって大切に育てたい!」
そんな感情を抱くはずだ。
物語はまだ始まったばかり。さがら総……いや主人公は、未だ自分の才能と正面からは向き合っていない。この先、主人公がどんな成長を見せ、どんな壁にブチ当たり、どんな決断を下すのか……先が気になって仕方が無い。一秒でも早く続きを読みたい。
さがら総は新たな代表作を引っさげて、自分を世に送り出したライトノベル業界に帰ってきた。
旅に出た王子は、一回りも二回りも成長して、彼の生まれた国へと帰還を果たしたのだ。
何のために?
もちろん、王になるために。
白鳥士郎