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『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の渡航先生による苛烈解説も収録!「やはり小学生女児への興味関心の差が大きいのかもしれない。」

 王の話をするとしよう。ラノベの国の王子様が王になった話だ。

 さがら総は2010年に『変態王子と笑わない猫。』で第6回MF文庫Jライトノベル新人賞最優秀賞を受賞し、デビューした。応募時のペンネームは天出だめ。このペンネームは本当にガチのマジでだめだと思うが、そんなダメ・オブ・ダメなペンネームと裏腹に、デビュー作『変猫』の勢いはすさまじかった。さがら総半端ないってもぉー! アイツ半端ないって! 当時のMF文庫J史上最高初動売上出すもん……。そんなんできひんやん普通、そんなんできる? 言っといてや、できるんやったら……。
 当時の私はさがら総とその著作に関して「ふ、ふーん、結構やるじゃん…(震え声)」とだいぶ余裕ある態度をとっていたが、内心めちゃくちゃ嫉妬していた。なんせ拙著『あやかしがたり』(全四巻小学館ガガガ文庫より大好評絶賛発売中)は刊行以来一度たりとも重版が掛からない売れなさっぷりを発揮していたのである。
 まだ今よりも随分とラノベ界隈が元気だったころのことだ。新作が出れば飛ぶように売れ、またまたまたまたアニメ化やし……と言わんばかりに景気が良かった。今は地獄。
 そんな中で、レーベルの大賞を受賞しながらとにかく売れない一生売れない何が何でも絶対売れないという状況にあった私は未だ相まみえることのなかったさがら総に対して、憧憬と尊敬の入り混じった感情を抱えていた。
 それからしばらくして、何かの飲み会でついにさがら総との邂逅を果たすことになる。
 当時のラノベ作家飲み会は有象無象の海千山千、売れている者も売れていない者も富める者も貧する者も、呼ばれれば二つ返事でホイホイ現れるちょっとカオスな飲み会であった。『俺ガイル』を刊行したばかりでその初動も手ごたえも今一つわからないような状況だった私も先輩作家に誘われてそこへ行ったのだが、その場にさがら総も来ていた。
 普通に考えればその場で仲良くなって……となるはずだが、既に売れっ子のさがら総は座の中心で他の売れっ子たちとアニメ化だコミカライズだゲーム化だときゃっきゃうふふ仲良くよろしくやっていて、片や私は下座も下座、なんなら土下座まであるレベルで端っこにいてたぶん川岸殴魚あたりとガガガ文庫への悪口で盛り上がっていたような気がする。
 格差。格差である。王子と野武士くらいの差がそこにはあった。
 飲み会の間、私とさがら総が会話することはほぼなかった。唯一、さがら総から私に掛けてきた言葉は「いつもブログ読んでます!」だった。フリースタイルダンジョンなら般若手前までいけるレベルのテクニカルなdisである。そんなことを言われればもはや嫉妬も尊敬も抱きようがなく、「なんだこいつ…絶対殺そう」と純然たる殺意だけがこの胸を滾らせたが、逮捕されて会社に迷惑をかけるわけにはいかないと思い留まった。骨の髄まで社畜である。この手を汚すわけにはいかないので、唯一お褒めいただいたブログにさがら総の悪口を書くくらいしかできなかった。それが今こうして解説を書く羽目になっているのだから、縁というのは不思議なものだ。
 ここまで読んでいただければおわかりいただけたと思うが、ラノベ作家同士の付き合いというのはなかなか微妙なものなのだ。人間同士の付き合いそのままに。
 あまり知られていない事実だが、ラノベ作家も実は人間なのである。
 ついついラノベ作家というワードでカテゴライズし、十把一絡げにラノベ作家全員をひとくくりにしてしまいがちだが、無論、一人一人違う。もちろん、同じような職種を選んでいるのだから、似ている属性や記号、背景を宿していることは多々ある。
 例えば、私も『教え子』の主人公、天神と同じく、塾講師をしていたことがある。
 といっても、太郎とは違い、私の方はあくまで大学三年の頃にやっていたただのアルバイトだった。バイトがある日はスーツで大学に行き、「こんな時期から既にスーツ姿の俺はお前らウェイ勢飲みサーとは違うんだよなぁ……」とイキリまくりだった。後年、同じゼミのウェイの者がゲーム業界最大手の会社に就職し、とある見本市で偶然の再会を果たしたときはそいつを殺そうと固く心に誓ったが、その話は今は置いておく。……陽キャ、なんで人生うまくいってしまうん?
 話を戻そう。太郎が勤めているのは進学塾だが、私の方はいわゆる学習塾だった。
 グループ指導と個人指導、どちらもやったが、授業の大半は雑談で誤魔化し、指導計画は他の講師のものをコピペする有様で、私の就業態度はお世辞にも良いとは言えなかった。それでも特に大きな問題が起きなかったのは、有体に言って、ボトム層へのフォローが私に課せられた仕事だったからであろう。「勉強なんて意味なくない?」とのたまう生徒に対して「わかる、それな」と適当な相槌を打ちつつ、ひたすら漢字の書き取りや英単語の暗記をやらせ、確実な得点源を落とさせない指導を繰り返していた。『教え子』内で描かれているお見送りであったり、保護者の方へのご報告やご家庭での学習状況のヒアリングのお電話などをそつなくこなせば、それだけで給料ゲットだぜ!と社会を舐め腐りまくりのクソバイト講師だった。それでも、成績が上がったと保護者の方から感謝のお電話をいただいた時はさすがに心が痛んだ。痛みすぎてそのままバイトを辞めたほどである。
 塾講師という要素一つとっても、私とさがら総では受け取り方も描く切り口も違う。私が塾講師物を書いたとしても、これほどのリアリティも苦みも痛みも描きだすことはできないだろう。やはり小学生女児への興味関心の差が大きいのかもしれない。
 ラノベ作家という存在の描き方についても同様だ。
 本作で登場する墓堀りのような人間には心当たりがないが、社長タイプは割とよくいる。ラノベ作家の七割がそうだ(俺調べ)。もちろん私もこのタイプである。
 この手の作家は書くのが好きで好きで仕方がないという性分でラノベ業界は彼らの存在と熱意によって支えられているといっても過言ではない。売れたいしアニメ化したいし声優さんと結婚したいけどなによりもまずラノベを書くのが好きでやってるという連中だ。彼らは部数を絞られても書くし、印税率が低くてもやる。さして実入りの良くない単発仕事だって好きだからこそやっている。とんだやりがい搾取である。理解できない。
 前述のとおり、私もこの社長タイプに大別されるわけだが、しかし、さがら総はおそらく違う。じゃあ、どんな作家なん?と問われても返答に困る。あまり個人に興味がないのもあるが、あいつはぶっちゃけ意味わかんない奴なのである。理解できない。
 主人公に著者のパーソナルを投影するのは非常にわかりやすい理解だが、それはさすがに安直に過ぎる。キャラクター化された語り手はあくまでキャラクターにすぎず、作者の代弁者足りえない。極度にカリカチュアライズされた作品世界の登場人物は著者の思考から派生した一側面、あるいは自身が持っていないからこそ取り入れられた側面を強調した存在であり、それそのまま等号で結ぶことはできないのである。では、どこからさがら総の作家性を読み解くか。それは書いた物語によってのみ、判断しうる。
 白鳥氏はさがら総が描こうとしている物語のテーマを『才能』と述べていた。その事実認識はまったく慧眼と言わざるを得ない。私以上の語り手、そしてさがら総作品へのわかり手が既に語ったことについて、私がこれ以上駄文を連ねても仕方がないので、ここでは別の事柄に言及したい。下手なことを書くと、私がイラストに気を取られてちゃんと読めていないことがバレてしまうからな。稲荷ちゃん可愛すぎない? なので、私はさがら総が書く、コミュニケーションの在り方、ひいては人間同士の心の交わし方に着目したい。
 本作でたびたび太郎が内省的に語る会話技術とプロトコルによって他者の、そして自己の感情をコントロールする、ある種の本音と建前によって構築されるコミュニケーション。そしてそれによってもたらされるズレが引き起こすコメディとトラジディ。
 トチ狂った言い回しでもって煙に巻くやり口で、作者にも読者にも優しくない切り口で、時に辛辣極まる語り口で、彼は人の心の有り様を描き出す。そこにはいつもシニカルで懐疑的な眼差しがついてまわる。
『才能』がテーマであるとするならば、『人間不信』はさがら総の本質だ。他者はもちろん、自身のことさえ彼は信じていない。極論、さがら総は人の心を持っていないが故に、人の心を描くことに強烈な使命感を持っているように思える。
 王は人の心がわからない。だから、わかろうとする……というロマンティックな話ではさらさらなく、ただ答えのない問題に対する解法を探ることに喜びを見出す探究者然とした、もっとシステマティックな何かを勝手に感じてしまう。理解できない。怖い。
 おそらくこの解説を読んださがら総は、いつものムカつくにやにや笑いで「君はそう思うんだね」などと言い、正誤については何も言及しないのだろう。怖い。
 なので、この解説が正しいのかどうか、その答えは君の目で確かめてくれ!

渡 航

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