公司は激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。
さがら総がラノベの国の王様であることは、自分であとがきを書かず他者に解説を書かせているあたりからすでに自明のことと思うが、白鳥士郎、渡航という絶対面白いコラム書くマンたちにめぼしいことを書かせたのち、かよわい平民に投げるあたり、世が世なら暴君として名を馳せていたであろうことは想像に難くない。
読者諸兄は当然ご存じのことと思うが、著者のさがら総は『変態王子と笑わない猫。』で第6回MF文庫Jライトノベル新人賞の最優秀賞を受賞しデビューした、まさに銀の匙を咥えて生まれてきた大貴族である。しかも同作が大ヒットしテレビアニメ化まで果たしているのだからもう文句の付けようがない。
加えて身長一八〇センチオーバー、アスリートのように引き締まった身体を持ち、その美貌は街を歩くだけで人々の目を奪い、彼の後ろには蝶が舞い花が咲き乱れ女子小学生たちが列を成すときたものだ。世の人々を魅了してしまうため、彼はメディアに姿を現す際は馬マスクの着用を義務づけられている。
なので彼の姿を見たい人は、MF文庫Jライトノベル新人賞で賞を獲ろう! ファンタジア大賞でもいいよ!
話を戻すが、当時の私も大多数の作家の例に漏れず、そりゃあもう彼に嫉妬した。当然だ。一年後輩の作家にマッハでブチ抜かれれば誰しもそう思うだろう。
けれどそれだけではない。単純に、彼の書いた作品がものすごく面白かったのだ。
ストーリーやキャラクターは言うに及ばず、このさがら総という作家は腹が立つほどに文章が上手い。とにかく『読ませる』のだ。
日常のなんてことないシーンでさえ、彼の手にかかれば不思議と面白い。これは同業者にとってみればちょっとした恐怖である。
そもそも私は基本的に、殴り合わねば話が解決しないと思っている少年漫画脳なため、バトルせずに話を収めることができる作家を尊敬している。その中でもさがら総の技術は感嘆を以て評するしかない。彼の文章は城のように基礎がしっかりしているのである。しかし流れるような筆致で情景を描写したかと思えば、練りに練った技巧を以て描いているのはくだらない(褒め言葉)妄想と性癖であったりする。「さてはこいつ頭いいな……?」と「さてはこいつ頭わるいな……?」が交互に襲ってくるのである。不思議な感覚だ。最終的に、「この文章を書いたやつは頭がおかしい」という結論に達した私を一体誰が責められるだろうか。
マジで『撮り小』『乗り小』とかなんなのあれもう。女子小学生と女子中学生の違いを表現した『生のカリフラワーと茹でたブロッコリー』とかいう比喩に至っては、一体どんな頭を持ちどんな経験を積めば出てくるのか想像も付かない。たぶんロリロリの実を食べた能力者とかだと思う。海軍は早めに手を打った方がよいのではないだろうか。
さて、では文章以外に見るべきところがないのかと言われれば、決してそんなことはない。私が思うに、彼の作品の——殊にこの『教え子』の——魅力は、『毒』だ。
どんなにキラキラな世界ときゃわきゃわな美少女を描いていたとしても、さがら総は必ずそこに一滴の毒薬を垂らす。どくタイプのロリモンだ。ほんの一滴。だがその一滴が、キャラクターに、ストーリーに、世界に、痺れるような刺激を付与するのだ。
けれど彼自身は生まれながらにしてその身に毒を帯びていた蛇ではなく、生きていく中で毒を蓄えた河豚のような存在だ。世俗に満ちる微量の毒をその身に集め、濃縮した上で作品に投影する。簡単に言うと、何とも難儀なことであるが、彼が苦しめば苦しむほど作品が面白くなるのである。
私の知る限りさがら総が一番毒を貯め込んでいたときは「作家に自分の本を褒められると全て煽りに聞こえる……」と言っていた。それが本心だったのか、彼なりの照れ隠しだったのかはわからないが、『教え子』もへんたい、もとい、たいへん面白かったので、近々直接感想を伝えようと思う。私が不審死を遂げたら犯人はやつだ。
そしてさがら総は今巻も、最後の最後に天神を一刺ししてきた。最後のあの展開は、星花にとっての希望であり、天神にとっての劇毒だ。今から四巻が楽しみで仕方ない。私にできることはわくわくしながら続きを待つことと、四巻がさらに面白くなるよう彼にストレスとプレッシャーを与えることくらいである。
まさかの展開を迎えた天神と星花。逃れ得ぬ運命が二人を襲う——
ついに明かされる筒隠の謎。悪夢の胎動はやがて世界を呑み込んでいく。
「天兄ぃ、助けに来たんよ!」
「シャーク、まさかその姿は——!」
『教え子に脅迫されるのは犯罪ですか?』驚愕の4時間目。二〇一九年■月発売。
君は、生き残ることができるか——
橘公司