読者諸兄は、さがら総という作家にどんなイメージを抱いているだろうか。
彼が人前に出るときはだいたい馬の姿に化けているので、馬だと思っている方もいるかもしれない。安心していただきたい、人間である。爽やかで礼儀正しい、イケメンの好青年だ。しかし、ただの好青年というわけではない。彼はじつに恐ろしい男なのだ。
数年前、ラノベ作家七人で集まり、ディプロマシーというボードゲームを遊んだときのことだ。ディプロマシーは、二十世紀初頭の欧州を舞台に、プレイヤー間の交渉のみで領土を勝ち取ることを目的とする、運要素の一切介在しない、己の頭脳とコミュニケーション能力のみがものをいう戦争ゲームである。
六時間を超える長丁場の末、勝利したのはロシアを担当するさがら総だった。まさに圧勝であった。彼は爽やかな笑顔と巧みな弁舌で常に交渉をリードし、田尾典丈先生のトルコと伏見つかさ先生のオーストリアを、またたくまに併呑してしまったのだ。
すごいのはそれだけではない。ディプロマシーはゲームの性質上、勝つためにはどこかで他のプレイヤーを裏切る必要があり、それ故に友情崩壊ゲームなどと呼ばれたりもするのだが、彼は他のプレイヤーと衝突することなく、まったく恨まれることもなく、ただただ平和的に領地を増やしていったのである。あまりにエレガントなその勝ち方に、恐ろしい男よ、と密かに戦慄したのを覚えている。
そんな恐ろしい男、さがら総は、もちろん作家としても恐るべき才能の持ち主だ。
誰もが認めることであろうが、彼は文章が巧い。それはもう悔しいほどに巧い。
日常の情景描写にさりげなくキャラクターの心情を折り込み、ユーモアのある軽妙な文章で読者を楽しませたかと思うと、ハッと胸を突くような言葉を放り込んでくる。比喩は面白く的確で、テンポ良く練り込まれた会話文には思わず唸ってしまう。
キャラクターの造形も素晴らしく、さがら総の描写するヒロインは、みんな滅茶苦茶に可愛い。星花ちゃんはロリ可愛いし、夜弥ちゃんもロリ可愛い。冬燕ちゃんも桃夏ちゃんも、凛ちゃんもひらりちゃんも、みんなロリ可愛い。ああ夜弥ちゃん、夜弥ちゃんを曇らせたい、あと夜弥ちゃんをもっと泣かせたい……、おっと取り乱してしまった。とにかく可愛いのである。しかも、ただ可愛いだけじゃない。なにげない会話の中で、彼女たちの感情がふとこぼれ、大人びたリアルな表情を垣間見せるときがある。その魅力といったらもうたまらなく、僕たち読者は完全にまいってしまうのだ。
さて、本作『教え子に脅迫されるのは犯罪ですか?』の話だ。
もちろん犯罪である。言うまでもない。それはそれとして、僕は『教え子』のシリーズ第1巻のエピソードを読み終えたとき、大変面白かったという素直な感想を抱きつつも、正直なところ、少し戸惑いをおぼえてしまったのである。
この作品は、物書きの話と塾講師の話、どっちがメインなんだろう。ともすれば、どっちつかずの作品になってしまうのではないだろうか、と。だが、後にそれが大きな勘違いであったことに気付く。本作は、主人公の天神が、物書きであり、塾講師でもあることに、重要な意味のある作品なのだ。
塾講師である天神は、純粋に物書きを生業とする社長や墓掘りとは異なる立場にある。彼は物書きと塾講師、二つのアイデンティティを行き来しつつ、ヒロインの筒隠星花と向き合うことになる。はじめは教師と生徒という関係で接していた天神だが、星花の作家デビューを切っ掛けに、彼は一人の作家として、星花と、そして自分自身と対峙せざるをえなくなる。そこに夜弥、冬燕、志辺里さんなど、ほかのヒロインたちとの関係も絡んでくるのだから、もうヒリつくような面白さに目が離せない。
『教え子』は、とにかく一筋縄ではいかない作品だ。作家ものであり、お仕事ものであり、才能をめぐる話であり、娯楽小説であり、どこか私小説のようでもあり、喜劇であり、見方を変えれば悲劇でもある。
物語の登場人物もまた一筋縄ではいかない。例えば、天神の初代担当編集は、作家の心を理解しないヤバイ奴のように見えるかもしれない。けれど、それは彼の一面だ。彼は本気で天神の才能に惚れ込んでいて、彼なりの信念を持っている。そこに嘘は無い。
さがら総が人物の多面性を意識していることは、彼の著作『さびしがりやのロリフェラトゥ』(マジ傑作です)にも表れている。同じ真実でも、光の当て方を変えれば、まるで違う真実が浮き彫りになる。さがら総は、登場人物を安易に規定することを、意識的に拒んでいるように思える。紀伊国室長にも、ロジカルマンにも、冬燕と桃夏の姉妹にも、それぞれ違う真実がある。そしてその多面性は、視点人物である天神にもあてはまる。
塾講師としての彼は、頭がよく頼りになる大人で、けれどその本質には、ぽっかりと欠けたものがある。欠けたもの、喪われたもののモチーフは、さがら総作品の特徴のひとつだ。建前を失った少年、表情を失った少女、狂気を孕んだ人類愛……、天神もまた、欠けたなにかを探して足掻きつつ、それでも生徒たちの前では正しい大人であろうと葛藤している。そんな彼の姿に、僕たち読者はどうしようもなく惹かれてしまうのだ。
物書きであり、塾講師である天神は、どこへ行くのか。その答えを見届けたい。
最後に。さがら総は天才である。
ただし、世に流布している天才のイメージのように、涼しい顔をして、ピアノを弾くように軽やかに執筆をしているわけではない。彼もまた、ほかの多くの作家と同じように、編集部の一室に閉じ込められ、担当編集に怒られ、首にベルトを巻かれ、うんうん唸り、ギリギリと歯を食いしばりながら、苦悶と懊悩の中で本を書いているのである。
志瑞祐