


11月11日生まれのさそり座。趣味は料理と魚の観賞。高校三年生の少女。

2月22日生まれのうお座。趣味は……強いて言えば読書。高校三年生の少年。

死神を自称する女。左手の薬指には指輪をはめている。早口言葉が得意。



11月11日生まれのさそり座。趣味は料理と魚の観賞。高校三年生の少女。
2月22日生まれのうお座。趣味は……強いて言えば読書。高校三年生の少年。
死神を自称する女。左手の薬指には指輪をはめている。早口言葉が得意。
殺したガールと他殺志願者2
著:森林 梢
イラスト:はくり
ISBN:9784046803313
人が人を殺す原因は、二つしかないそうだ。
一つは金。
もう一つは愛。
……もし、殺されるとしたら。
俺は愛ゆえに殺されたい。
◇死神と他殺志願者
「飛び降りないの?」
唐突な質問。地上の群衆から視線を切って振り返る。
三メートルほど離れた所。給水塔の前に、嘘っぽい少女が立っていた。
五月の風に揺れる、ダークブラウンのショートカット。斜陽に照らされて、妖しく光る紫紺の瞳。
球形のピアスが、翡翠色の輝きを放つ。
くっきりとした目鼻立ち。一七〇センチ近い身長も相まって、モデルめいた雰囲気だ。
ベージュのコートに、黒いジーンズを合わせている。足元には淡い紫のハイヒール。
容姿端麗。ただ、それも彼女の嘘っぽさを助長している。
強いて例えるならば、書類の記載例として記された『面接太郎』や『英検花子』という名前に近い。目の前にいながら、一目で「こんな人間は存在しないだろう」と思わせる謎の力が彼女にはあった。
「誰だ?」
「えーっとぉ、死神?」
問いに、少女は彫像めいた微笑みを浮かべる。
返答自体には驚かなかった。誰に殺されるかは問題じゃないから。条件さえ満たしていれば、相手は死神でも構わない。
とりあえず、設定を受け入れて尋ねる。
「死神も結婚するんだな」
言って、死神花子の手元を指さす。
彼女の左手薬指には、シルバーリングがはまっていた。
数秒の硬直を挟み、花子は苦笑する。
「これ、飾りだよ」
「男除けか」
「そんな感じ」
引きつった笑み。ここでようやく、俺は彼女が実在の人間であると確信した。
微苦笑のまま、花子が俺の右隣まで歩いてくる。必然的に、廃墟の屋上から地上を見下ろす形となった。
周囲には手すりも柵も無い。理由は、一般人の侵入を想定していないから。らしい。数年前、管理会社はそう説明していた。
まぁ、屋上から飛び降りた訳じゃないんだけど。
……飛び降りるつもりか? 花子の様子を窺う。
「死んじゃったの。結婚するって約束したのに」
「後を追うのか?」
「追わないよ。まだ」
嫌な倒置法だった。
互いの距離は五〇センチほど。手の届く所に死神がいる。死神を名乗る奇人がいる。
「あたしには、やらなきゃいけないことがあるからね」
「……俺を、殺しに来たのか?」
「そうだと言ったら?」
花子は探るような視線を向けてくる。冗談半分だったのに。
研かれた鎌を思わせる瞳。堪らず目を逸らし、無意味に首を押さえた。
花子が問いを重ねる。
「殺してほしいの?」
「いや、結構だ」
「ふーん」
そっけない反応だけ返し、視線を眼下へ向ける花子。意図せず同じ動きをしてしまう。
いくつもの小さな人影が、忙しなく動き回っていた。
どっかのラピュタ王家は、逃げ惑う人々を見て『人がゴミのようだ』と言っていたが、個人的には『ゴミが人のようなのだ』と思う。
人間の出すゴミほど人間に近しい存在を、俺は他に知らない。
「怖いの?」
ゴミ……じゃなくて人の群れを眺めながら、花子が訊いてきた。努めて冷徹に応じる。
「違う」
「本当に?」
「俺は死にたい訳じゃない」
「あははははっ! そんな顔して、こんな所にいるのに!?」
真顔で言ったら爆笑された。これほど人を笑わせたのは、生まれて初めてかもしれない。つうか、顔は関係ねぇだろ。
気を取り直して、俺は本懐を教える。
「俺は、俺のことを愛している人に殺されたいんだ」
一瞬、花子の表情が消えた。
「……………………ウケる」
ウケるなよ。
嘆息して空を仰ぐ。女の子は降ってこない。
とんでもない死神に捕まってしまった。厄日だ。
布団で眠る病人を連れてきて、花子を布団の足元に立たせるか? 思案していると、
「……君の望み、叶えてあげようか?」
死神の方から提案してきた。思わず失笑する。
「お前が俺を愛して、殺してくれるのか?」
「あははっ! そんな訳ないでしょ!」
腹を抱えて、再び爆笑する花子。羞恥で顔が火照った。
不満を込めて尋ねる。
「じゃあ、どうやって俺の望みを叶えるんだよ?」
「女の子、紹介してあげる」
「断る」
踵を返して歩き出した。
こんな所へ来るような人間だから多少は期待していたが、とんだ時間の無駄だった。こいつは、俺の命題を馬鹿にしているのだ。そう思えば、一連の軽薄な態度にも納得がいく。
「君の望みを叶えてくれる女の子だよ」
背後からの声に、足を止めてしまった。無視すれば良かったのに。
けど、我慢ならなかった。
こっぱずかしい言い方になってしまうが、これは俺の夢なのだ。
他の何を引き換えにしてでも、叶えたい夢。それを馬鹿にされては、黙っていられない。
「……適当なこと言うなよ」
睨みつけるため、顔だけ振り向くと、眼前に花子が立っていた。
鼻白む俺の目を、彼女はじっと見つめる。僅かな陽光を反射して、紫紺の瞳が淡く輝く。
「君も本当は分かってるんでしょ? このまま生きていても、君の望みは絶対に叶わない。満たされないまま死んでいく」
「……」
図星だった。
幼い頃から抱いている夢だが、具体的にどうすればいいのかは今も分かっていない。こんな夢を周囲に語れば、然るべき施設に強制送還されてしまう。故に、こういう頭のおかしい奴にしか相談できない。
「そうなるくらいなら、私の提案を聞いてみるのも、一つの手じゃない?」
頭のおかしい奴による、おかしい提案。俺はおかしい頭で考える。
常識的に考えれば、そもそもおかしい夢なのだ。試す価値はある。かもしれない。
「……暇つぶしに冷やかされてやるよ。感謝しろ」
「そっちこそ感謝してよ。恋のキューピッドになってあげるんだから」
渋々ながら了承すると、花子は頬を膨らませた。
「どうしてそこまでする? 何が目的だ?」
「君を殺すこと」
「……俺のこと、好きなのか?」
「あははっ!」
三度目の爆笑。慌てて釈明する。
「いや、今のは変な意味じゃなくて」
「分かってるよ。けど、口調がアホっぽかったから」
アホはお前だ。心中で吐き捨てた。
三日後。午後一時一〇分前。
週に一度の部活動をサボって、俺は最寄りの喫茶店を訪れた。
和洋折衷のモダンな内装。レトロな雰囲気のアンティーク家具や雑貨が、整然と配置されている。床に敷かれているのは、タータンチェックの絨毯。
店員の誘導に従い、左隅奥のテーブル席へ腰かける。錆色のソファが軋んだ。
今から一〇分後。俺の望みを叶えてくれる女の子が、ここへ来ることになっている。
正直、期待はしていない。所詮は死神の戯言。信じる方がどうかしている。
つまり、俺はどうかしている。
我ながら情けない話だ。あんな奴の言うことを真に受けるなんて。自分で自分が嫌になる。
羞恥に駆られて、周囲を見回す。
花子がどこかから監視しており、俺の醜態を眺めているかもしれない。
……それ、何が楽しいんだよ。馬鹿馬鹿しい妄想に、自嘲的な笑みが漏れた。
恐らく『周囲に見られている』という錯覚は、『自分は周囲から注目されるべき存在だ』という自信の裏返しであり、『自分に注目してほしい』という期待のなれの果てなのだと思う。
真横の窓ガラスで、己の容姿を確認。
グレーのパーカーにジーンズ。脇には学校指定のサブバッグ。無難の極み。
「……はっ」
自身の虚像に対して失笑を浮かべる。外を歩くサラリーマンが、素早く目を逸らした。
「貴方が殺されたい人ですか?」
気だるげなアルトボイス。ぎょっとして顔を向けると、無表情の少女が立っていた。
黒紅色の艶やかな長髪。魚を模したシルバーアクセサリーが、その上を優雅に跳ねている。
琥珀色の澄んだ瞳。薄紅の唇。通った鼻すじ。雪色の肌。表情こそ暗いが、整った容姿。
着ているのは、灰白色のハイネックニット。その上にデニムワンピースを合わせており、細い脚は黒のタイツで覆われている。肩にはベージュのレザーバッグという着こなし。
背は低い。一五〇センチ前後だろう。身体も華奢で、腕は枝みたいだ。
好みではない。そんな俺の心中を見透かしたのか、眉を顰める少女。
「黙っていないで、質問に答えてください」
「……端的に言えば」
早くも齟齬が生じている。あの死神、仲人の資質ゼロだな。
ため息を吐いて、少女は俺の対面に座った。座高が低いのか、座ると更に小さく見える。
「正蓮寺東高校三年、浦見みぎりです。浦賀の浦に見るの見、みぎりは平仮名です」
事務的な自己紹介。機械的に返す。
「今井高校三年、淀川水面だ。淀んだ川の水面って書く」
「変わった名前ですね」
「お互い様だろ」
字面は俺の完全敗北だけど。淀川って苗字が大きなディスアドバンテージだな。
胸中で嘆息すると同時、浦見が身を乗り出し、目前まで顔を寄せてきた。
妙な引力を持つ大きな両眼が、身動きを許さない。フルーティな香りが鼻先を撫でた。
驚愕と動揺と緊張と狼狽を押し殺し、眼差しで何用かと尋ねる。
「貴方、奥二重ですね」
平坦な声で、浦見は脈絡なく言った。
「……奥二重だと、何か問題あるのか?」
「問題点を指摘した訳ではありません。貴方の長所を必死で探した結果です。他に褒める点が無かったんです」
「『奥二重以外に褒める所が一つもない』って、割と強めの悪口だろ」
「うるさいです」
言い捨てると、浦見が軽く挙手して店員を呼んだ。
颯爽と現れた、笑顔が似合うスタッフに注文。すると思いきや。
「……スキンヘッド、似合ってますね。衛生面を考慮してるんですか?」
「っ! ば、馬鹿。何言ってんだ」
その人は死ぬ気で育毛したけど駄目だったんだよ。
いきなりの不躾な質問に戦々恐々としながら、改めて注文。
「アイスのカフェラテをお願いします。あ、ストローも」
「俺はホットミルクで」
笑みを強張らせて、メモを持った店員(ハゲ)がキッチンの方へ向かった。
同時、浦見がこちらを睨んでいることに気づく。
「な、何だよ?」
上擦った声で問うと、彼女は小さく嘆息した。
「コーヒーは苦手ですか?」
「別に。好んで飲まないだけだ」
「じゃあ、次からコーヒー以外は注文しないでください」
「……は?」
意味不明な要求に困惑していると、ストローの差されたカフェラテとホットミルクが運ばれてきた。
店員が去った後、浦見は少しだけカフェラテを飲み、物憂げに呟く。
「私は、最愛の人を殺したいんです」
「……そういうことか」
瞬間、花子の意図を理解した。
自分を愛してくれる人間に殺されたい俺と、最愛の人を殺したい彼女。
上手くいけば、二人の望みを同時に叶えることが出来る。という算段か。
また一口飲んで、彼女は続ける。
「詳しい説明は省きますが、私には幼少期から『最愛の人間を殺したい。殺したくなるほど愛したい』という願望があります」
緊張しているのか、声は微かに震えていた。
「こんなこと、今までは限られた人にしか言えませんでした。気の迷いだと自分に言い聞かせて、諦めようとした時期もありました」
『限られた人』には、恐らく死神花子も含まれているのだろう。
「……けど、駄目なんです。日増しに思いは強くなっていくんです。誰かを愛したくて、殺したくて堪らないんです」
……同じだ。
俺も、誰かに愛されたくて、殺されたくて堪らない。
生まれて初めての同種との邂逅。図らずも精神が高揚する。
「このままだと、いずれどこかでどうでもいい人を殺してしまいそうなんです。そんな消化不良の殺人では、死刑にされても死にきれません」
その通りだ。どうでもいい奴に殺されたら、悔やんでも悔やみきれない。地獄に落ちる以上の苦痛と屈辱だ。
人生の末路を想像したのか、青ざめた浦見。彼女は切なる声で言い切った。
「だから、私が貴方を殺します」
「……おう。助かる」
混乱するあまり、意味不明な返答をしてしまった。何だよ、助かるって。
「その代わり、貴方は私に愛されてください。私にとって、最愛の人になってください」
「わ、分かった。努力してみる」
この瞬間、利害関係の一致によって、人生初の恋人候補が誕生した。
安堵の息を吐いた恋人候補が、メニュー表を手に取り、その角で俺の手の甲をつつく。
止めろ。地味に痛いから。
「もし、貴方を愛することが出来たら、その時は遠慮なく刺殺してあげます」
「殺害方法まで決まってるのか」
「爆殺でもいいですよ。方法にこだわりは無いので。どう足掻いても決して手の届かない所へ行ってくれれば良いんです」
「爆殺は勘弁してくれ。何が原因で死んだのか分からない」
第一希望は絞殺。次点で刺殺かな。第三希望を圧殺にするか毒殺にするか、悩ましい所だ。ちなみに最下位は溺死。
懊悩する俺を、浦見は不安げな上目遣いで見つめる。
「……私からの話は以上です。何か質問はありますか?」
俺は迷わず尋ねた。
「お前と花……、あの女の関係は何だ?」
「あの女とは、死神を自称する女のことですか?」
渋面で問われて頷く。
「……姉妹です。遺憾ですが」
自称死神の姉と、最愛の人を殺したい妹。
育ちは良くなさそうだな。俺も人のこと言える立場じゃないけど。
「とはいえ、姉さんにも良い所はあります。両利きです」
「姉の長所、それしか無いのか?」
「あと早口言葉が得意です」
「……奥二重の時も、スキンヘッドの時も思ったけど、褒める所が無いなら無理して褒めなくても良いと思うぞ」
お前、人を褒めるの向いてないよ。
俺の本音に、浦見は真剣な面持ちで答える。
「どんな人であっても、好きな部分を探して、伝えるようにしてるんです。そうすれば、そこをきっかけに、好きになれるかもしれないでしょう?」
つまり、現時点で俺の好きな部分は奥二重だけということか。前途多難だなぁ……。
アイプチの使用を検討していると、急に浦見が立ち上がった。
「ここでダラダラ喋っていても仕方ありません。そろそろ行きますよ」
「は? どこに?」
聞くと、何故か半眼を向けてくる浦見。
「決まっているでしょう。服屋ですよ」
◇
浦見と並んで店を出る。涼風が頬を撫でた。
母の手を想起させる感触。思わず口角が上がってしまう。
「にやけないでください。気持ちが悪いです」
「お前、俺を好きになる気あるのか?」
「貴方こそ、私に愛される気はあるんですか?」
横目で互いを睨む。いきなり剣呑な雰囲気。
待て。落ち着け俺。対立すれば、どちらの望みも達成できない。大切なのは譲歩だ。感情的になるな。
深呼吸して、強引に話題を変える。
「……飲み物、まだ残ってたぞ」
「あえて飲まなかったんです。美味しくなかったので」
失礼な奴だ。心中で毒づく。
そういえば。
「どうしてコーヒーなんだ?」
何の話か分からなかったようで、浦見は可愛らしく小首を傾げる。
「どうして、俺は今後コーヒーしか頼んじゃいけないんだ?」
「コーヒーを飲む男性の姿が好きだからです」
「……それだけ?」
その反応が気に障ったらしく、彼女は不満げに口を尖らせた。
「貴方には、徹底的に私の理想を演じてもらいます。異論反論は許しません。基本的に、コーヒー以外の飲み物は禁止です」
「了解」
素直に受け入れる。全ては愛のため。その先にある死のため。この程度なら従うさ。
「服装も同じか?」
「逆に、そんな風体で誰かに愛されると思いますか?」
「格好を変えたくらいで愛せるのか?」
あまり自分で言いたくはないが……、好みの分かれる顔立ちだと思うぞ。
自分なりに凛々しい顔を作ると、浦見は深々とため息を吐いた。
「何の努力もせずに愛されようと、殺されようと思っていたんですか? 図々しい人ですね。そんな考えだから、今まで誰からも、殺したくなるほど愛されなかったんですよ」
「……」
そう言われると、その通りかもしれない。
殺したくなるほどの愛情。当然、生半可なものではない。相応の努力は必要。なのか?
半信半疑な俺の方へ、浦見が歩み寄ってくる。
戸惑う俺に、彼女は尊大な口調で告げた。
「貴方には、私の理想の男性になってもらいます」
「……分かった」
「殺したくなるくらい魅力的な男性にしてあげますから、覚悟してください」
「お、おぉ」
手放しで喜んで良いのか、いまいち分からなかった。
◇
とりあえず、浦見が勧めるセレクトショップをいくつか巡って、黒いライダースジャケットと白のインナー、ネイビーのスキニージーンズをそれぞれ二着ずつ購入した。
服屋のトイレで着替えて、店先のショーウインドーで全体像を確認。
悪くない。ファッションとは、もっと複雑怪奇なものだと思っていたが、案外簡単なのかもしれない。
意気揚々と歩き出そうとした時、インナーの襟を掴まれた。
「ぐっ……」
狭まる気道。乱れる呼吸。遠のく意識。
振り返らず、背後の敵を詰い問める。
「何しやがる」
「タグ、外してください。一緒に歩くこっちが恥ずかしいです」
要求があれば口で言え。
野蛮人の暴挙に喉をさすっていると、浦見が俺の前へ出た。
振り返らず、背後の俺に命令する。
「何をしているんですか? 次に行きますよ。早くしてください」
「まだ服買うのか?」
「別件です」
◇
次の目的地は美容室だった。
蜂蜜に似た甘い香りのする中、散髪が行われる。
結果、俺の髪型は生まれて初めてのオールバックとなった。大量のジェルで固めたせいか、髪を手で動かすとバリバリという音がする。
「かなり改善しましたよ。良かったですね」
木目調の待合室にて。ロッケンロールな俺の容姿に、浦見は満足そうな面持ち。
「……お前の理想、ちょっと古臭くないか?」
「黙って従ってください。愛してあげませんよ。殺してあげませんよ」
ふと思う。俺はこいつに利用されているだけなのではないか?
現在、俺の生殺与奪は彼女に握られている。
他に愛してくれる人間のあても無いので、全ての要求に唯々諾々と従うしかない。
いずれ『そこにあるビルの屋上から飛び降りてくれたら殺してあげます』などと言い出すかもしれない。先行きに不安を覚える。
「帰りますよ。早くしてください」
そんなに急いでどこへ行く。心中で呟き、後を追って店から出た。
携帯電話で時刻を確認。午後五時一一分。
慣れない場所を連れ回されたせいで疲れた。英気を養うため、明日の授業は休むしかない。浦見のせいだ。俺は悪くない。
留年したら学費を請求してやる。企むと同時、浦見が歩調を緩めて、俺の隣へやって来た。
計画を悟られぬよう目を逸らす。
「こちらを向いてください」
命令が下された。仕方なく立ち止まり、顔を浦見の方へ。
値踏みするような眼差しで、俺の全身をチェックする浦見。妙に気恥ずかしい。
一分後。彼女は小さく嘆息する。
「まぁ、及第点といった所ですかね」
「これだけやって、まだ及第点なのかよ……」
多分、俺史上最高得点だぞ。
うなだれる俺に、浦見が追い討ちをかけてくる。
「貴方のような人間が、この程度で変われると思ったら大間違いです。自惚れないでください」
「シビアだな」
「妥協しない主義なんです」
「その主義で生きるの大変そう」
「この主義で死ぬのはもっと大変ですけどね」
その発言には激しく同意だった。
◇
浦見を自宅の門前に送り届けた所で、初めてのお出かけは終了を迎えた。
彼女の自宅は二階建ての木造住宅。
芝生の敷かれた広い庭園には、手入れされた立派な松が何本も屹立している。
「金持ちなのか?」
「ですね。実の父母ではありませんけど」
聞くと、左の浦見は真顔で答えた。
実父と実母の不在。新たな共通項。
人間は、自分と近しい要素を持つ人間と一緒にいることで安心する。同族からの理解と共感、肯定が大好きだ。
だから、勝者は勝者を求める。敗者は敗者を求める。強者は強者を求める。弱者は弱者を求める。
そして、常識という偏見を一層強固にし、排他性を強めていく。
結論。俺が浦見にこれといった理由もなく惹かれるのは自然なことであり、断じてロリコンではない。
自分で自分に言い聞かせていると、浦見が今日一日の総括を始めた。
「貴方の矯正には、相当な労力が必要ですね」
「それは俺の労力であってお前の労力ではないだろ。労するのは俺だろ」
「添削と指導には多大な労力が必要なんです。貴方には分からないでしょうけど」
何でお前には分かるんだよ。誰の何を添削・指導した経験があるんだよ。
と、言った所で意味が無いのは重々承知。文句は飲み下し、説教を受け入れる。
「……よし、決めた。俺はお前に歩み寄るための努力を惜しまない。その代わり、お前も歩み寄る努力はしてくれ。お互いに協力しよう」
「……分かりました」
真面目な表情で答えた浦見が、一歩距離を詰めてくる。
何のつもりかと聞く前に、ひしと抱き着いてきた。
「っ!?」
慌てて真意を読み取ろうとするも、表情は見えない。ただ、耳は朱色に染まっている。
「……オプションは頼んでないぞ?」
精一杯のジョークも虚しく、彼女は不服そうな面持ち。
「リアクションが薄いです」
「あ、当たり前だろ。攻撃に対してリアクションすると、苛烈さは増すんだから」
「……苛烈になったら、嫌ですか?」
上目遣いでの問い。返答に窮する。
「……内容次第かな」
「これくらいなら、どうです?」
言うと、浦見は爪先立ちして、耳に吐息を吹きかけてきた。
「ちょっ、ちょっと待て」
必死に頼んでも、彼女は離れようとしない。さすがに抵抗を試みる。
「これ以上攻撃が苛烈さを増す場合、俺も反撃せざるを得ないぞ」
警告されて、浦見が視線を泳がせた。
「や、やれるものならやってみなさい。私は抵抗しません。抵抗するまでもありません」
言ったな? すかさず浦見の視界の外から手を伸ばし、耳たぶをつまんでみた。
「にゃっ」
にゃっ? 甲高い奇声を脳内で復唱すると同時、足の甲が踏み抜かれた。
「い、痛ぇ……」
激痛に悶絶。足の甲を押さえる。ピンヒールじゃなくて良かった。
首元まで赤面した浦見が、小走りで家の玄関へ。扉を開き、素早く中に逃げ込む。
「変態行為は自重してください」
僅かな隙間から言い捨てて、ぴしゃりと扉を締め切った。
取り残された変態は堪らず呟く。
「……こっちの台詞だよ」
◇
帰宅後。自室のベッドに横たわり、ぼんやり天井を見上げる。
生活感はあるのに生気が感じられない。なのに落ち着く。奇妙な空間。
そんな安寧を邪魔する、携帯電話からの着信音。
画面には見知らぬ番号が表示されている。
間違い電話か? おそるおそる通話ボタンを押した。
「もしもし」
『おつかれ〜』
甲高く、空々しい声。
「……花子?」
『花子?』
スピーカーから呆けたおうむ返し。
「すまん、間違えた。死神だな」
『どう間違えたら花子になるの?』
死神もとい浦見姉はケラケラと笑った。
「……こんな時間に、何の用だ?」
『声が聞きたくなっただけ』
「っ、…………さいですか」
そんな台詞、生まれて初めて言われた。だから、適切な返答も分からない。
ぎこちない反応を受けて、クスクス笑う浦見姉。
『ドキっとした?』
「……してねぇし」
普段より強く心臓が拍動しただけだし。
深呼吸している間も、浦見姉は尋ねてくる。
『どう? みぎりと上手くやっていけそう?』
「まだ分からん。基本的に他人と上手くやっていけたことがないから」
『まるで身内とは上手くやってきたかのような口ぶりだね』
「まるで身内とは上手くやれなかったことを知っているかのような口ぶりだな」
なぜ分かった? エスパーなのか?
異能力バトル展開に備えていると、浦見姉が小声で呟いた。
『そういう意味では、似た者同士かもね』
「……」
いや、みぎりの身内はお前だろ。出かかった言葉を飲み下す。
『他に感想は? 何でもいいよ』
「……耳たぶが柔らかかった」
『……ちょっとキモい』
「何でもいいんじゃなかったのかよ……」
図らずも嘆息が漏れた。浦見姉は偉そうに続ける。
『女子の「何でもいい」
を真に受けちゃ駄目。常識だよ』
「アインシュタインいわく、常識とは一八歳までに身につけた偏見のコレクションらしいぜ」
『アインシュタインに語れるほど、女子は簡単じゃないよ』
だとしたら誰も語れねぇよ。
人類最大の難問に頭を抱えていると、
『じゃあ、そろそろ切るね。また電話するから、番号登録しといて』
「……了解」
『愛してるぜい。なんちゃって』
返答を待たず、電話が切られた。
普段より強く心臓が拍動した。
◇金魚と他殺志願者
「デートをします」
「でーと?」
おうむ返しすると、対面に座る浦見は深いため息を吐いた。
一瞬、本気で何語か分からなかった。それくらい馴染みのない単語。デート。
男女が日付と時間を決めた上で会うこと。また、その約束。
定義上は、今この瞬間もデートの最中だ。
あれから、俺たちは数回の逢瀬を重ねた。浦見が通う高校の放課後や休日に、今日みたいに初めて会った喫茶店(同じ席。満席になることは永遠に無いと思われる)へ足を運び、しばらく話す。日によっては店を変えたり、服屋や雑貨屋、書店をぶらついたりする。
最後は、浦見の自宅前で総括。という名のダメ出しパラダイス。
ただ、改めて宣言したということは『いつも通りでは駄目』ということだろう。
「初めから終わりまでのデートプランを練り、私をエスコートしてください」
「そんなこと言われても、俺デートなんかしたことないぞ」
「言い訳は聞きません。最高のデートを用意する。私の要求はそれだけです」
「……りょ、了解」
拒否権はない模様。浦見が高飛車に続ける。
「厳しく採点しますから、死力を尽くしてくださいね。赤点を取ったら、殺してあげませんよ」
「採点基準は?」
「私の主観です」
打つ手なしじゃねぇか……。
◇
翌日。最高のデートを用意するため、俺はある人物を頼ることにした。
電話で聞かなかったのは、件の人物が男からの着信を基本的に無視するから。
久々に高校へ行き、久々に授業を受けた後。
向かっているのは、美術準備室だ。
同級生や教員から、卒業の可否や成績について聞かれた際、俺は『大丈夫』と答えるようにしている。嘘ではない。大丈夫か大丈夫でないかで言えば、絶対に大丈夫だ。問題なし。ノープロブレム。
問題を問題と認識できないことは幸せだ。と考えている時点で本当は問題だと認識しているのか。つまり足りないのは認識ではなく危機感。あと興味関心意欲態度勉強根性友情愛情。
自己分析の結果、絶望。同時に準備室へ到着。あの人いるかな。中を覗き込む。
いた。
壁に背を預けた女と、その女に右手で壁ドンをかましている女がいた。
それだけでは飽き足らず、壁ドン女は壁女の顎に左手を添えて、自分の方へ向けた。俗に『顎クイ』と呼ばれる動作だ。
薄い扉越しに声が聞こえてくる。
「駄目です。こんな所で……」
「大丈夫だよ。……だから、ね? いいでしょ?」
「……ちょっとだけですよ」
了承を得た瞬間、二人の唇が重なった。
優しいフレンチ・キスを何度も繰り返す。どことなく幻想めいた光景。
躊躇なく扉を開け放つ。
「っ!」
音に反応して、壁女の肩がびくりと跳ねた。一方、壁ドン女は落ち着き払った態度。
顔を真っ赤にした壁女が、全力疾走で俺の横を駆け抜けていった。
「……うす」
「いいところだったのにー……」
恨めしそうに俺を睨む壁ドン女。本名は女川好。
俺を美術部に引き込んだ張本人であり、高校で唯一、まともな交流がある生徒だ。
青みがかった黒髪を、ポニーテールにしている。翡翠色の瞳は宝石のように美しい。
蜂蜜色の肌。彫りの深い目鼻立ち。しなやかな肢体。
黒のワイドパンツとカーキ色のシャツを合わせており、垢抜けた雰囲気。私服校だから許される服装だ。
身長はかなり高い。浦見姉ほどではないが、十分すぎるくらい魅力的な容姿。ちなみに、推定Fカップ。ちなみにちなみに、浦見は確定Aカップ。
俺はFカップをたしなめる。
「学校でいかがわしいことするのは止めろ」
「してないよ。平日は」
嫌な倒置法だった。土曜日ならしてもいいのかよ。
彼女は破顔して言う。
「初めて会った時も、こんな感じだったよね」
「成長してないな」
「全くだよ。しっかりして」
こっちの台詞だ。
「そういえば、燕ちゃんと連絡が取れないんだけど」
また着信拒否されたのか……。
「……あの人に変なことするな。紹介した俺が怒られるんだぞ?」
「何もしてないって! ほんとほんと! キスする前に殴られたから!」
「してるじゃねぇか……」
ため息を吐いて室内を見回す。
八つの長机を二つずつ使って、四つの島が作られている。どの机にもデッサン用のモチーフやハードカバーの書籍、各種資料が山と積まれており、今にも崩れそうだ。
壁際には個人用ロッカーと本棚。反対側の壁際には、電子レンジや冷蔵庫などの家電が並べられている。雑然とした空間とは、こういう場所を指すのだろう。
家電が置かれた机の下。段ボールの中から紙コップを取り出し、インスタントコーヒーの粉末を投入。電気ポットで湯を注ぐ。
「で、誰に用があって来たの? 人に聞かれても問題ない内容なら、伝えておくけど」
「……お前に、聞きたいことがあるんだ」
「好に?」
首を傾ける女川。一人称に自分の名前を用いる人間は、俺の知り合いには彼女しかいない。
「……デートプラン作るの、手伝ってほしい」
一瞬で距離を詰めた女川に、両肩を強く掴まれる。ついさっきまで沸騰していたコーヒーがこぼれそうになった。
「相手はどんな子!? エロい!? 卑猥!? いやらしい!?」
「お、落ち着け」
実質一択じゃねぇか。
火傷を防ぐため、机上の僅かなスペースにコップを置く。
「エロくはない。けど、容姿は整ってる。……どっちかと言えば、可愛い部類だと思う」
「ならば死ね」
「お前が死ね」
「殺されろ」
殺されるよ。言われなくても。
正気を取り戻した女川が確認してくる。
「要するに、聞きたいことってデートプランの組み立て方?」
「そんな感じだ」
「何で好に聞くの?」
「他にあてがないから」
「男友達いないの?」
うん。いないの。女友達もいないの。頷くと、女川は小さく嘆息した。
「……とりあえず、好にもコーヒー淹れて。というか、自分がコーヒー淹れる時は女の子にも飲むかどうか確認しなさい。これ鉄則」
「わ、分かった」
慌ててコーヒーを用意。紙コップを女川に手渡す。
「まず、その子は何が好きなの?」
「分からん」
即答。女川が薄目を向けてきた。
「……ヤる気ないなら代わってよー」
ヤる気は無い。殺られる気はあるけど。
「次。運動は好き? ずーっと外にいても平気なタイプ?」
「それは無理だな」
「だったら、屋外は避けるのが無難じゃない? 行くなら映画館とかー、ゲーセンとかー、水族館とかー、プラネタリウムとかー」
ふむふむ。提案を脳にメモした。
「あと、何をするにしても、基本的には二〜三の選択肢を提示して選ばせてあげなさい」
「何で?」
「理由なんか知らなくていいの。こーすれば女の子が喜んでくれるってことだけ覚えとけば、オールオッケー」
「『どっちでもいい』って言われたら?」
「相手の趣味嗜好を考慮して決める」
趣味嗜好なんざ分かんねぇよ。
表情で心の声が伝わったらしく、女川は眉根を寄せた。
「相手のこと、知りたいと思わないの? デートに行くってことは、脈ありなんでしょ?」
脈ありどころではない。俺の人生が懸かっているのだから。
しかし。それでも。知りたいとは思わない。
「……俺、自分にとって都合のいい部分だけ見ていたいんだよ」
「……好きな人のことであっても、自分に不都合な部分は知りたくない?」
「好きな人に限った話じゃねぇけど」
浦見が好きか否かという部分はスルー。
「……そっかー」
嘆息した女川は、紙コップ片手に扉の方へ。
「寂しーね」
廊下へ出て行く直前の一言が、耳にべたりとこびりついた。
「……うるせぇ」
◇
デート当日。集合時刻三〇分前。俺は待ち合わせ場所の駅前へやって来た。
服装は全て浦見セレクト。黒のライダースジャケットをメインに据えたコーディネートだ。
髪もオールバック。ジェルマシマシのバリカタである。
無論、外見だけ整えた訳ではない。
あれから、俺と女川は議論に議論を重ね、一つ一つの案を慎重に検討し、綿密な計画を立てた。具体的には、女川の案(身体をまさぐる、耳を舐める等)を徹底的に潰した。
その結果『二秒で抱ける! 最強デートプラン!』という最低な名前のプランが完成。
二秒で抱けるかどうかはさておき、プラン自体の完成度には自信がある。
あとは、俺が忠実に遂行するだけ。余裕だ。
………………多分。
二〇分後。浦見が小走りで現れた。
動きに合わせて、水色のフレアスカートが揺れる。やや大きいベージュのカーディガンを羽織っており、肩には普段使いのレザーバッグ。可憐な雰囲気に胸が高鳴る。
「待ちましたか?」
「いや、今来たところだ」
「良かったです」
安堵の息を吐く浦見。
女川いわく、これが正しい対応らしい。『三〇分前には待ち合わせ場所へ行きなさい。その上で、相手には待っていないと笑顔で答えるのよ』と、何度も口酸っぱく言われた。
正直、意味不明だ。どうして三〇分前に来なければいけないのか。どうして待っていないと言わなければいけないのか。さっぱり分からない。
分かるのは、女川が俺より遥かに女性のエスコートを心得ているということだ。また、貴重な女性目線の意見でもある。従わない理由はない。
呼吸を整えてから、偉そうに腕組みする浦見。
「さて。約束のデートプランは練ってきましたか?」
「いくつか考えてきた」
自分で命令したクセに、浦見は驚いた様子。
「……期待はしていませんが、聞いてあげましょう」
「映画館か、水ぞ」
「水族館がいいです」
食い気味に言われて戸惑う。
「……他にも候補あるけど」
「水族館がいいです」
「……」
「水族館」
頑として譲らない浦見。
やはり、俺に拒否権は無いようだ。
◇
がら空きの電車に乗って、近隣の水族館へ向かう。
本日は久々の快晴。風は強いが、屋内であれば問題なさそうだ。
「そういえば、何で今日はOKだったんだ?」
「それは……」
実を言うと、今回のデートは二度延期されている。先週と先々週。理由は雨。遠足かよ。
「……晴れ、だからです。雨は駄目なんです」
浦見は躊躇いがちに答えた。
屋内デートなのに、天候を気にする理由。女川も分からないと言っていた。
ただ、おかげでプランをじっくり練ることが出来た。満足してもらう自信はある。
……まぁ、ほとんど女川が考えたんだけど。
◇
電車を降りて歩くこと数分。目的地に到着した。
矢頭水族館。今年でオープンから四七年。歴史と趣のある水族館だ。
全面ガラス張りの外観に圧倒されながら館内へ。
人はいない。タッチパネル式の自動券売機だ。建物の厳かな雰囲気とは、不釣り合いな安っぽさ。
「えーっと、チケットの値段は」
「私の分は結構です。年間パスポートを持っているので」
年間パスポートなんかあるのかよ。ていうか、そんなに来るのかよ。
一人分のチケットを購入し、更に奥へ進むと、二人の女性が現れた。通路の両端に立ち、営業スマイルを浮かべている。こう言っては失礼だが、ちょっと不気味だ。
女性にパスポートを見せる浦見。
「たくましい脚ですね」
「余計なことを言うな馬鹿」
失言を注意しつつ、女性の前を通過。なぜか俺が睨まれた。
水族館など、いつ以来だろうか。ここも前々から興味はあったのだが、実際に訪れたのは初めてだ。しかも、隣には可愛らしい少女。自然と気分が高揚する。
落ち着け俺。舞い上がってプランを忘れるな。大切なのは、退屈な時間を作らないこと。沈黙はご法度だ。
浦見が早足で館内を進む。俺も歩調を合わせる。
突き当たりを曲がると、いきなり大きな水槽が現れた。縦一メートル、横二メートルほど。中を泳いでいるのは、メダカやフナなどの小魚たち。
水草と朽木の配置が絶妙で、池や川の一部をそのまま切り取ったかのような臨場感。底に敷かれた白砂も美しい。
水槽が見えた途端、彼女は勢いよく走り出す。はやる気持ちを抑えられなかった模様。
「おい、危ないぞ」
俺の声など聞こえていない。水槽にへばりつき、食い入るように中を見つめている。小学生みたいだ。
「落ち着け。走るな」
「お、落ち着いています」
嘘つけ。声、裏返ってるぞ。
展示の一部と化した浦見は、五分経っても、一〇分経っても、移動する気配が無い。
「……閉館までに出られなくなるぞ」
「し、失礼しました」
そう言ったのに、次の水槽を見た途端、また走り出す。失礼を繰り返す。
正直、意外だ。もう少し自制心の強いタイプだと思っていた。
……子猫的な愛らしさはある、かな。
解説によると、この辺りは特定の魚ではなく、水槽を一つの作品として展示しているらしい。『山中の小川』や『冬の湖』など水槽一つ一つにテーマがあり、それを限られた空間の中でいかに表現するか、趣向を凝らしているとかいないとか。そんな感じの長文が水槽の脇に記されていた。
周囲を見回す。大小二〇の水槽が、等間隔で展示されていた。
受付には、じっくり観ても一時間程度で一周できると書いてあったが、このペースだと倍以上はかかりそうだ。
カップル向けのスマホアプリや簡単に遊べるゲーム、困った時の話題一〇選など色々準備してきたのだが、この様子だと披露する機会は無いだろう。まぁ、別にいいけど。
浦見の後を追いかけながら、展示を楽しむ。
規模が小さい分、客が飽きないよう展示方法や演出に工夫が施されている。照明の当て方が上手いのか?
「綺麗だな」
「……な、何ですか? ご機嫌とりですか?」
「え? 何が?」
「……まぎらわしいことを言わないでください。減点です」
苛立った浦見に、腹を強く殴られた。遅まきながら失態に気づく。
「そ、そんな水槽よりも、お前の方が綺麗だぜ」
「水槽に勝っても嬉しくありません」
「いや、本当だって。超可愛い」
「……嘘です」
「嘘じゃない。浦見ちゃんマジ天使。一万年に一人の美少女。パーフェクト」
「わ、分かりました。もう結構です」
「浦見ちゃんと一緒にいられてめっちゃ幸せ。他には何も要らない。ノー浦見ノーライフ」
「止めてください。恥ずかしいです」
「思いが溢れ出して止まらない。浦見ちゃん世界一。神より神ってる。アイラぶっっっ」
再び腹を殴打された。いいパンチ持ってるじゃねぇか。
腹をさする俺に、浦見が詰問する。
「最後、何を言おうとしてました?」
「……忘れた」
三度、腹を殴られた。1RTKOだった。
◇
淡水魚。海水魚。熱帯魚。両生類。甲殻類。水生昆虫などなど。多種多様な生物の展示。
その中でも、特に浦見が興味を示したのは、金魚のコーナーだった。
ダークブラウンの内装。昭和の下町を思わせる。
セピア色のポスターや看板、雑貨が通路沿いを彩っている。頭上には金魚の形をしたちょうちんと、金魚柄のガラスで覆われた灯籠。
夏祭りの縁日の中を歩いているような懐かしさと、幻想的な雰囲気が混在している。不思議な空間だ。水族館側も、このコーナーには力を入れている様子。
その中央。金魚の大群が、角柱形の大きな水槽の中を優雅に泳ぎ回っている。琉金という種類らしい。丸みのある体形と、揺れる長いひれが特徴的。色も赤、黒、白、金、紅白、赤白黒の三色など様々だ。
じっと水槽を見つめる浦見に尋ねた。
「金魚、好きなのか?」
「というより、飼育下に置かれている生き物が好きなんです。野生の生き物は嫌いです」
「へぇ。何でだ?」
「自然の中で自由に動き回る動物を見ていると、『お前なんかいなくても生きていける』と言われている気がするんです」
「……言いたいことは、何となく分かる」
全ての生き物が、その存在をもって、己の存在を否定している気がする。
そんな感覚に苛まれることは珍しくない。
浦見が水槽を優しく撫でる。
「ここにいる生き物は、誰かに助けてもらわないと生きていけない。そういう、生き物として欠陥を抱えている存在が、とても愛おしく感じるんです」
その思考には、激しく共感した。
ここの魚たちは、自分より遥かに巨大な誰かの意志で生かされている。生きることを強要されている。本当は死にたいかもしれないのに。
そう考えると、同族嫌悪ならぬ同族恋慕に駆られた。……恋慕?
謎のノイズに戸惑っていると、浦見は神妙な顔で言い切った。
「だから、刺身は天然より養殖派です」
「そこもかよ」
食う時は関係ないだろ。養殖も美味いけど。
笑いが、記憶の片隅からノイズをかき消し、忘却させた。
金魚コーナーを出ると、曲がり角の先から外の光が見えた。出口だ。
その先には中規模の売店がある。おかしやぬいぐるみなどが売られていた。
結局、一周するまでに通常の倍以上の時間がかかってしまった。プラネタリウムは諦めた方が良さそうだな。
「あの」
「ん?」
どうかしたか? 目線で尋ねる。
「……もう一周しても、いいですか?」
無論、拒否権はなかった。
◇
二周目を終えて、お土産を購入し、水族館を後にする。
滞在時間、六時間弱。
もはやプランもくそもない。出来ることといえば、近場の喫茶店に寄るくらいだ。
嘆息して空を仰ぐ。
「……曇ってきたな」
「ですね」
答えた浦見はレザーバッグの中を漁っている。何かを探しているようだ。
ふと気づく。何故か、顔が青ざめていた。
「浦見?」
「な、何でもありません。行きましょう」
話を打ち切って、歩調を速める浦見。釈然としないまま追従する。
「そういえば、何を買ったんですか?」
浦見が、俺の手元にあるナイロン袋を見て言った。
「お土産。うちの学校の同級生に頼まれたんだ」
俺の回答に、浦見は目を細める。
「……女性ですか?」
「そうだけど」
「私には何も渡さないのに、女友達には渡すんですね」
不満げな浦見が口を尖らせた。慌てて言い訳する。
「デートプラン作る時に、色々と手伝ってもらったんだよ」
「つまり、私の知らない所で私の知らない異性と密会していたんですね」
「言っとくけど、やましいことは何も無いぞ。潔白だ」
「罪人は皆そう言うんですよ」
どうやら、まともに話を聞くつもりは無いようだ。
困った。どう説明すれば納得してくれるのだろう。こういう時の対処法も女川に聞いておけば良かった。
どうしたものかと悩んでいると、道沿いにあるカフェのテラス席に見知った姿を発見。
これ幸いと声をかける。
「燕さん」
「んお」
らしからぬ呆けた声が返ってきた。
金の長髪をオールバックにした女性。緋色の眼光は威圧的な印象を与える。
アウターは白いコート。ズボンは白のワイドパンツ。上下白のコーディネートが、金色の腕時計と黒い革靴を際立たせる。
初対面の不審者を警戒しているのか、俺の後ろへ隠れる浦見。
「目だけで人を殺せそうですね。お知り合いですか?」
「鷹燕さん。何かと世話になってる、柄の悪い人だ」
「はい死刑な」
眉根を寄せた燕さんが立ち上がり、アイアンクローで俺の頭部を潰そうとする。
「いてぇです。勘弁してください」
「嘘つけ。てめぇ、痛みなんか感じねぇだろ」
バレたか。そりゃそうだ。昔からの知り合い。俺の体質も知っている。
俺を右手一本で拘束したまま、燕さんは命令した。
「あと、女川のアホを何とかしろ」
「俺に言われても困ります」
「お前の監督不行き届きだろ」
「あんなの監督できません」
監禁しない限り、止めることなど出来ない。
「別の女を斡旋しろ」
「紹介できそうな女性なんて、義母さんくらいしかいませんよ」
「大丈夫。女川にとっては攻略対象だ」
だから駄目なんだよ……。
「あいつ、最近はスズにも絡んでるぞ」
「雀さん、可愛いですもんね」
何気なく呟いた途端、燕さんの声に殺意が宿った。
「……てめぇ、スズに手出したらマジで殺すからな」
「落ち着いてください。可愛いって言っただけです」
「排除する理由としては十分だ」
暴論を振りかざし、燕さんは更に力を強める。
ちなみに、スズというのはこの人の弟だ。雀という名前だからスズ。安易なあだ名。
「覚悟しろ。握りつぶして……ん?」
このタイミングで、浦見が女子だと気づいた燕さん。ニヤリと不気味に笑む。
「……へぇ。可愛い彼女じゃねぇか」
「いや、彼女っていうか、何ていうか……」
何と説明するべきか。眼差しで浦見に尋ねた。
「初めまして、浦見みぎりです。淀川さんとは友人として仲良くさせて頂いております」
「はははっ! フラれたな!」
うるせぇ。心中で吐き捨てる。
俺の気持ちなど露知らず、燕さんは根も葉もないことを嘯く。
「こいつ『超カワイイ彼女ゲットしたぜ!』って言い触らしてたぞ」
「最低です。勝手なことを言わないでください」
「言ってねぇよ」
反論を聞かず、浦見が背中の肉をつねってきた。
「お仕置きです」
「止めろ。マジ痛いって」
身を捩って逃げる。
しかし、燕さんは逃がしてくれない。
「『好き好き好き好き大好き大好き愛してる愛してるアイラブユーフォーエバー』って騒いでたぞ」
「燕さん、止めてください」
「じゃあ、愛してないのかよ?」
「え?」
突然のカウンターにたじろいでしまう。燕さんは繰り返し聞いてきた。
「この子のこと、愛してねぇのかって聞いてんだよ」
「いや、えっと、そんなことはなくもなくもないですけど」
「じゃあ愛してるって言え」
「はぁ?」
理不尽な命令に眉を顰める。
「今言え。すぐ言え。ここで言え」
「ま、待ってください。俺はまだしも、浦見を巻き込むのは止めてください」
秘技、他人を労る体で他人を盾にするの術。
「……私は、構いませんよ」
「え?」
浦見の呟きに耳を疑う。その顔は熟れた林檎のように赤い。
「お、おい。正気か?」
「だと思われます」
「自分のことだろ……」
思われますって何だよ。言い切れ。
何とか回避する方法は無いか。必死で考える俺を、燕さんが急かす。
「ほら、早くしろ。死刑にするぞ」
「くっ……」
従わないと、燕さんに締め落とされる。この人の前で意識を失うのは死よりも恐ろしい。
背に腹は代えられない。俺は覚悟を決めた。
「……愛、してる」
うわぁ。死にてぇ。死刑にしてくれぇ。
自殺願望を他殺願望で抑え込み、浦見の様子を窺う。口角が僅かに上がっていた。
一方、燕さんは顔を伏せて肩を震わせている。俺で遊ぶな。
燕さんを睨みつけていると、今度は浦見から命令が。
「もっとロマンチックにお願いします」
「ロマンチック?」
「高層ビルの最上階にある高級フレンチレストランで指輪を渡してください」
「無茶言うな……」
まず、ドレスコードを通過できないと思う。
「サプライズは加点の対象ですよ。頑張ってください」
「減点の対象は?」
「爆破オチと夢オチですかね」
減点されることは無さそうだな。安心した。
が、それも束の間。再び燕さんが口を開く。開かなくていいのに。
「つうか、お前ロリコンだったんだな」
「違います」
多分。きっと。そう信じたい。
ロリこわい、ロリこわい、と心中で唱えている間に、燕さんが視線の矛先を浦見へ向けた。
瞬間、全身を強張らせる浦見。警戒心剥き出し。
燕さんはゆっくりと彼女の方に近づく。
内ポケットから手帳とボールペンを取り出し、手早く何か記すと、そのページを千切って浦見に渡した。
「ミナに何かされたら、ここへ連絡しろ。八つ裂きにしてやっから」
間接的な脅迫。反射的に身震いする。
紙を受け取った浦見は、おそるおそる言った。
「……さすがに八つ裂きはやりすぎじゃありませんか?」
「……だったら、どうしてほしいんだよ?」
詰問されて、浦見が求刑する。
「可哀想だから、四つ裂きくらいにしてあげてください」
「了解」
イカれた案が燕さんの独断で採用されてしまった。
背開きだろうと腹開きだろうと、うなぎにとっては同じだ。可哀想だと思うなら最初から獲るな。捌くな。食べるな。
やられっぱなしも癪なので、反撃する。
「今日は雀さんとデートですか」
「……わりぃかよ」
頬を染めて、そっぽを向く燕さん。
「そんなこと言ってませんよ。アツアツですねぇ。ひゅーひゅー」
「はい死刑」
迫る殺意と腕を躱し、テーブルから距離を取る。
「じゃあ、そろそろ失礼します。デート楽しんでください」
「うっせぇカス」
逃げるようにその場から離れた。正確には、その場から離れるように逃げた。全力で。
気を取り直し、我々もデート再開。
あの人のおかげでお土産問題は先送りされた。誠に遺憾だが、感謝せねばならない。
燕讃頌が天の怒りを買ったのか、水滴がぽつりと鼻先を叩いた。
「……雨か」
あの気象予報士、また外しやがったな。番組側も使わなければいいのに。
雨は段々と勢いを増していく。急いで、シャッターがおりた商店の軒先へ向かう。
しかし、浦見は呆然として動かない。虚ろな目で天を仰ぐ。
「浦見。そこで雨宿りしよう」
「は、はい」
呼びかけに反応して、ようやく浦見が軒先へ移動した。
「傘くらい用意しとけば良かったな」
「し、仕方ないですよ。予報では晴れでしたから」
珍しく非難されなかった。いや、怒ってほしい訳じゃないんだけど。そういう趣味は多分あるけど。
セクシュアルな思索に耽っていると、軒先から落ちた水滴が、浦見の足元に落ちた。
瞬間、彼女の身体がびくりと跳ねる。勢いあまってシャッターに激突した。
「ビビりすぎだろ」
「……うるさいです」
浦見の反応に違和感を覚える。返答に覇気がない。心なしか、呼吸も荒くなった気がする。
──残念ながら、それは気のせいではなかった。
数分後には顔が真っ青になり、その場でしゃがみこんでしまった。身体は小刻みに震えている。体調不良か?
意を決し、背中をさするため手を伸ばした。
「お、おい。大丈夫か?」
「いやっ!」
突然、浦見は思い切り腕を振り回した。彼女の爪が、高速で俺の腕の上を走り抜ける。
「痛っ」
無意味と分かっていても、腕を押さえてしまう。
腕に赤い線が浮き上がった。線の端から、赤黒い液体が滴る。結構深く抉れたな。
「すいません! 大丈夫ですか!?」
息を荒らげて聞いてくる浦見。激しく取り乱している。こんな姿を見るのは初めてだ。
俺を殺そうとしている人間が、俺を傷つけて狼狽している。客観視すると滑稽な絵面。
「俺は大丈夫だから、まずはお前が落ち着け。どっか痛いのか? 持病か? 病院行くか?」
「……手を、握ってください」
「手?」
場違いな要求に、声がひっくり返ってしまった。
「気持ちの問題なので、安心したら落ち着くと思うんです。……だから、お願いします」
「わ、分かった」
恥ずかしながら、こういう形で女子と手を繋ぐのは初めて。緊張してしまう一八歳。
ズボンで自分の手を拭ってから、彼女の手を握った。
細くしなやかな指から伝わる、ひやりとした感触。葬式で握った母の手に似ていた。
◇
「私、水が怖いんです」
一〇分後。落ち着いた所で、浦見から説明が始まった。
「雨が降ると、母は不機嫌になる人でした。頭痛がひどくなると言っていました」
いるよな、そういう奴。俺の周りには二人、いや三人いたか。
「そういう時、母は水を張った洗面器に、私の顔を沈めました。虐待の痕跡を残したくなかったのでしょう」
淡々と語られる過去にぞっとした。その手のことは色々と経験してきたが、窒息系は特に苦しい。殺される時も、溺死だけは嫌だ。
……絞殺されたいのに、窒息したくないって、矛盾してるな。
「以来、水が怖くなってしまいました。水の中に入ることは勿論ですが、水が一気に口の中へ入り込むとパニックに陥ります」
口元に手を当てる浦見。それを見て思い出す、喫茶店での注文。
何を飲む時も、彼女は必ずストローを頼む。あれには理由があったのか。
「……だから、先週と先々週は駄目だったんだな」
浦見は無言で頷いた。
せっかく出かけても、終始雨に怯えていては楽しめない。当然の判断である。
「普段、雨の日はどうしてるんだ?」
「傘があれば、辛うじて動くことは出来ます。けど、今日は忘れてしまいました」
「いつも持ち歩いてるのに?」
「……舞い上がっていたんです。初めてのデートだったので」
申し訳なさそうに、浦見は目を伏せた。発言と態度が合っていない。
「……ははっ」
「な、何がおかしいんですか?」
「別に。案外そそっかしいんだなぁと思っただけ」
「うるさいです」
俺の肩を軽く殴る浦見。いつもの調子が戻ってきた。
「そういえば、水族館は大丈夫だったのか? 周り、水だらけだぞ」
問うと、また浦見の表情が翳る。
「……機嫌のいい時、お金に余裕があると、母が連れていってくれたんです。水族館が好きなのは、その影響だと思います」
「……なるほど」
皮肉だ。思い出も、トラウマも、水が絡んでいるなんて。
強烈な体験は、良くも悪くも人生に多大な影響を及ぼす。
プラスの体験はプラスの影響を、マイナスの体験はマイナスの影響を及ぼす。
マイナスの体験をばねに成功した人間は『あの経験が今に活きている』などとほざくが、それは嘘だ。マイナスの体験を経た成功者は、プラスの経験を経ていればもっと大きな成功を掴むことが出来た人間である。
マイナスの体験は、マイナスな影響を及ぼし、マイナスの人間を作る。マイナスの人間は、他者にマイナスの体験を与える。この繰り返し。
結論。マイナスはマイナスしか生まないbyマイナス。
「あーあ。最悪です」
周囲にマイナスイオンをばらまいていると、浦見が嘆息してうなだれた。
「どうして?」
「知られたくなかったんです。面倒な奴だと思われたくなかった。嫌われたくなかった」
「……そんなこと思わないし、嫌いにもならない」
「……ありがとうございます。嘘でも嬉しいです」
「ひねくれてるなぁ……」
まぁ、好きでひねくれた訳じゃないんだろうけど。
一人の人間から、マイナスとプラス両方の強烈な影響を受けると、人の行動に対して望ましい反応が出来なくなるのだ。円滑なコミュニケーションが難しくなる。
なぜ相手が怒ったのか、褒めてくれたのか、分からないから。素直に受け取れない。
この影響は『自分が何をしようと、こいつは気まぐれで怒るし殴るし褒めるし笑うのだ』と気づいてからも続く。
消えず、残る。染みつく。蝕む。
「ていうか、もし俺に嫌われても、お前にとっては問題ないだろ」
彼女の目的は、最愛の人間を殺すこと。相手が自分をどう思っているかは関係ないはず。
浦見が不服そうに眉根を寄せて言った。
「私は最愛の人を殺したいんです。最愛の人に嫌われたくはありません」
「……………………へ、へぇ」
不意を衝く愛の告白。まともに顔を見られない。
浦見も気付いたらしく、薄紅の顔を逸らした。
「今の話は仮定です。まだ貴方のことを愛してはいないので、勘違いしないでください」
「し、知ってるよ」
百も承知だ。言われるまでもない。お前のことなんか、何とも思ってないんだからね。
「……」
「……」
駄目だ。頭が茹って正常に働かない。正常に働いた所で大した処理能力はないけど。
「……傘、買ってくる。手、放しても大丈夫か?」
「……大丈夫です。ありがとうございます」
了承を得て、軒先から飛び出した。
地雨の降る中、駆け足でコンビニへ向かう。
彼女との遭遇がマイナスの出来事であるとするならば、それも悪くないと少し思った。
◇
「寒っ」
「早く着替えないと、風邪を引きますよ」
濡れた身体を震わせると、隣の浦見が気遣ってくれた。
「大丈夫だ」
風邪を引いた所で、苦しさは感じない。
ただ、出来れば風邪は引きたくない。自覚のないまま、倒れて動けなくなるのは嫌だ。
ビニール傘を掲げた二人が、歩道を占領して最寄り駅へ向かう。
「傘、ありがとうございます。私の分まで」
「あの流れで一本しか買ってこないほどアホじゃねぇよ」
「……アホだから、二本買ってくるんですよ」
「え? どういうこと?」
「うるさいです。アホなりに考えてください」
言われて、アホなりに考えてみる。
「……傘とレインコートを買ってきて、好きな方を選んでもらうべきだったということか」
「アホですね……」
おい、女川。選択肢を提示して選ばせてあげれば間違いないんじゃなかったのかよ。不評だぞ。どうなってるんだ。責任取れ。
「へくちっ」
可愛らしいくしゃみ。出所は浦見。
「寒いか?」
「許容範囲です」
そこそこ寒いってことか。どうしよう。
服を貸そうにも、雨の中を走ったせいでずぶ濡れ。コートの類も持って来ていない。買うか? 水族館にしか行っていないため、予算には余裕がある。
「お風呂に入りたいです」
「……は?」
突然の要求。浦見はこちらを見ないまま繰り返す。
「寒いので、貴方の家のお風呂に入りたいです」
「……何で?」
「湯船に浸かりたいんです」
質問の答えになっていない。湯船ならお前の家にも…………あれ?
「さっき、水に入れないって」
「貴方と一緒なら、大丈夫だと思うんです」
「……え?」
意味不明の応酬。そろそろ処理落ちしそう。
オーバーヒート直前の脳髄に、浦見がとどめを刺した。
「お風呂、一緒に入ってください」
◇
道中。俺は何度も尋ねた。
「マジで一緒に入るのか?」
「嫌なんですか?」
「嫌ではないけど……」
「だったら、何が不満なんですか?」
「不満っていうか、不都合っていうか」
「貴方の都合など知りません。親の葬式だろうと私を優先してもらいます」
「もういねぇよ」
いや、片方はいるかも。いた所で何も変わらないけど。
「ていうか、普段はどうしてるんだ?」
「必要最低限のシャワーで済ませてます。それでも、慣れるまで数年かかりましたけどね」
……………………。
「…………………………分かったよ。入ればいいんだろ」
◇
数十分後。自宅へ到着。
「一人暮らしですか?」
「あぁ。『生活力を養え』って、義母さんに言われてさ」
養っても意味ないのに。
「お、お邪魔します」
中に入った浦見は、念入りに屋内を見回しながら、抜き足差し足で浴室の方へ。
「何やってるんだ?」
「安全確認です」
俺の家を何だと思っていやがる。不服だ。
……いや、待て。ここは会って間もない男の家。浦見の立場からすると、不安を覚えるのは当然かもしれない。
不安と言えば。
「時間は大丈夫か? 親御さん、心配するだろ」
「大丈夫です。『友達と遊んでいるから帰るのが遅くなる』と伝えてあります」
「……友達、いるのか?」
「うるさいです」
軽く胸を殴られた。いないんだな。俺の見立ては正しかった。
「タオルは用意するけど、着替えはどうするんだ? 持ってるのか?」
「貸してください」
「うい」
どうしよう。女子用の部屋着なんか無いぞ。あっても問題だけど。
ちなみに、浦見が家に来るのは初めて。
そもそも、女子が家に来るのも初めて。そりゃそうか。
浴槽を洗い、湯を注ぐ。八分もあれば溜まるだろう。
その間に、適当なジャージ一式と色落ちしていないバスタオル、新品のボディタオルを用意。カーテンで仕切られた脱衣所へ向かう。
「着替え、持ってきたぞ」
「ありがとうございます。入っても大丈夫ですよ」
カーテンを開けて脱衣所内に踏み込む。
浦見は既に上着を脱いでいた。
上はピンクのキャミソール一枚。まだスカートを穿いているが、この時点でかなり際どい。
「……ここに置いとくから」
肌着姿を網膜に焼き付けて、備え付けの棚にジャージとタオルを置く。
準備を終えると、浦見が浴室を指さした。
「先に入ってください。脱いでいる所を見られたくないので」
「遅かれ早かれだろ」
「うるさいです」
軽く脛を蹴られた。痛みに苦悶しながら脱衣所へ。
「……五分くらい廊下で待っててくれ。脱いでる所を見られたくない」
「遅かれ早かれでしょう」
「うっせぇ」
一旦、浦見に脱衣所から出てもらう。
手早く服を脱ぎ、腰にバスタオルを巻いて入浴。とりあえず、頭を洗い始めた。
どうして、俺は浦見と風呂に入ろうとしてるんだ? なぜ断らなかった? 馬鹿なのか? 美人局だったら一巻の終わりだぞ?
「……入りますよ」
「お、おう。ばっちこい」
浦見の呼びかけに、素っ頓狂な声で応じる。ばっちこいって何だよ。野球部か。
おずおずと扉を開き、浦見が浴室へ入ってきた。
白く細い身体に、バスタオルを巻き付けている。露になった肩と鎖骨がやたら艶めかしい。
辛うじてワンピースのような形にはなっているが、太ももは惜しげもなく晒されている。いつもなら、絶対に見られない不可侵領域。視線が吸い寄せられた。
凝視に耐えかねたのか、浦見は恥ずかしそうに身を捩る。
「ジロジロ見ないでください」
いや見るだろ。不可抗力だろ。
生まれて初めて女子と入浴したことで、二つの新事実を発見した。
発見1。年頃の男女二人が入ると、浴室は結構狭い。
発見2。湯気の中で見る女の子も良い。
「シャワー、貸してください」
「ど、どうぞ」
場所を譲ると、浦見は目の前でシャワーを浴び始めた。
タオルが身体に貼りついて、ボディラインが更にくっきりと浮き上がる。胸こそ無いが、スタイルは抜群だ。
身体が温まったのか、彼女はシャワーを止めて円柱形のバスチェアに腰かけた。普段は浴室の隅で置物と化しているが、初めて役に立った。
「せ、背中を流してください」
言って、バスタオルを腰の辺りまで落とす浦見。俺も彼女の背後にしゃがむ。ちょうど、頭の位置が同じくらいの高さになった。
白く細く、艶やかな後ろ姿。うなじに貼りついた髪が妙に扇情的。
落ち着け俺。心頭滅却すればロリもまたエロし。うん、手遅れっぽい。
邪心を悟られぬよう、細心の注意を払って、浦見の背に優しく触れる。
「んっ」
「へ、変な声出すなよ……」
「へ、変な触り方しないでください」
変人(浦見)から渡されたボディタオルで、背中を丁寧に洗う変人(俺)。
どのくらいの強さで洗うのが正解なんだ? どこまでが背中だ? いつまでやればいい? 疑問が止め処なく溢れてくる。
ふと見やれば、浦見の耳が真っ赤に染まっていた。
「も、もういいです。あとは自分でやります。壁でも見ててください」
「う、うい」
バトン渡しの要領で、ボディタオルを浦見に返した。すぐさま立ち上がり、顏を横へ。
布地と肌の擦れる音が、いやに大きく感じた。
「交代です。座ってください」
「……うい」
おそるおそる振り返ると、浦見はバスタオルで身体を隠していた。残念なような、ホッとしたような、複雑な気持ち。
言われるがまま、バスチェアに腰を下ろす。
「…………………………入れ墨、ですか?」
浦見の声には動揺が滲んでいた。
ついさっきまで、見せるつもりは無かった。浦見だけ風呂に入ればいいと思っていた。
だが、今日、浦見は見せたくない部分を見せた。これでプラマイゼロだろう。
……違うか。まぁいいや。
「義理の父親が彫り師なんだ」
「……暴力団ですか?」
「違う」
小声での問いに即答。客の中にはいるけど。
「こういうの、間近でじっくりと見るのは初めてです」
「だよな」
普段そうそう見られる場所ではないため、妙に恥ずかしい。
「この龍、傷だらけですね」
「……そういうデザイン。っていうことにしてある」
「……なるほど」
浦見の親には、虐待の発覚を恐れる知性があった。
俺の親には無かったものだ。
自分で見ることはほとんど無いが(改めて確認したいとも思わないが)痣と切り傷と火傷の痕が背中を覆っている。
けど、義父は、傷や痣もデザインの一部にしてくれた。そこは、割と本気で感謝している。
「貴方が彫ってくれと頼んだんですか?」
「いや、勝手に彫られた」
「え?」
戸惑いの声を上げる浦見。
俺は当時の記憶と疼きを思い出す。
◇
中学の頃、俺はプールの授業に出席できなかった。勿論、理由は背中の傷。
幸い、虐待の件を考慮して学校側も容認してくれたが、噂は簡単に広まった。
あいつは暴力団の倅で、背中に入れ墨が入っているのだと。
ある日。噂を聞きつけた義父に『傷が目立たないようにしてやる』と言われ、自宅の施術台に寝かされた。ほぼ強制的に。
仕方なく耐えること、二時間。
完成だと言われ、姿見で背中を確認すると、あら不思議。背中に仰々しい龍が出現。
奇しくも、噂は真実となってしまったのだ。
驚愕のあまり言葉を失う俺に、義父は言った。
『いいか? お前は傷があるからプールに入れないんじゃない。入れ墨があるからプールに入れないんだ。勘違いするなよ』
ちなみに、その段階では筋彫りという下書きめいた状態であり、全ての施術が終わるまで更に何倍もの時間と忍耐を要した。
◇
「凄いお義父さんですね」
「まぁ、何の予告も無く、養子の背中に龍の入れ墨彫る人間だからな。確かに凄い」
「……そう言われると、果てしなく微妙な気もしますね」
苦笑まじりの評価に、息子の俺も苦笑してしまった。
「お義母さんは、何も言わなかったんですか?」
「めっちゃ怒ってたな。『本人の許可も取らずに彫るなんて、どうかしている』ってさ」
浦見の甲高い笑い声が、狭い浴室に響き渡る。
「龍、好きなんですか?」
「嫌いではない。つうか、それしか彫らないんだよ」
義父はいつも言う。『人は誰しも背中に龍を宿している。自分は、それを目に見えるよう色塗りしているだけだ』と。カックイーね。嘘つけ。
浦見は龍の頭部、つまりは俺の肩甲骨あたりを撫でる。背筋に心地よい寒気が走った。
「これ、私は好きですよ」
「悪趣味だな」
「うるさいです」
この時、俺は湯あたりで適度に気が大きくなっており、前後不覚であり、錯乱状態であり、責任能力が無い状態。
だから、口が滑った。
「……浦見」
「何ですか?」
「愛してる」
意外と照れずに言えた。あまりの恥辱で脳が溶けているのかもしれない。
寸胴で煮こまれた脳味噌を想像しながら、首だけ振り向いて浦見の反応を確認。
夕陽より朱い顔。含羞に揺れる瞳。艶めく唇。
俺が寸胴だとすれば、彼女は瞬間湯沸かし器だろうか。
蚊の鳴くような声で、浦見が呟く。
「……悪趣味ですね」
「うっせぇ」
俺は悪趣味っていうより、露悪趣味だ。ついでに被虐趣味だ。
◇
時刻が午後六時を過ぎた頃。浦見の自宅へ到着した。
本日の総括が言い渡される。
「今日はありがとうございました。デートは合格です」
「あれでいいのか? 水族館に行っただけだぞ?」
「うるさいです。今日はおまけです」
目を逸らし、鼻を鳴らす浦見。
出来れば、最強デートプランもいつかどこかで披露したい。せっかく考えたから。女川が。
「では、失礼します。お疲れ様でした」
「あ、ちょっと待て」
呼び止めると、浦見が首を傾けた。
「これ。要らなかったら捨ててくれ」
酷評に備えて予防線を張り、お土産の入ったナイロン袋から中身を取り出す。
出てきたのは、赤い琉金のぬいぐるみ。らしいが、正直そんなに似ていない。前情報が無ければ、ひれの大きな太った魚にしか見えない。
ぬいぐるみを受け取った浦見は、それを矯めつ眇めつ聞いてくる。
「ひょっとして、水族館で買ったのはこれですか?」
「お土産も買ったけど、そっちはついで」
ちなみに、女川へのお土産には最も安いせんべいを選びました。
「まどろっこしいことをしないでください。アホのくせに」
覚悟はしていたが、酷評。俺なりに頑張ってみたんだけど。
「……けど、ありがとうございます。大切にします」
浦見はぬいぐるみをきゅっと抱きしめた。愛らしい仕草に鼓動が跳ねる。
「……それだけだから。じゃあな」
「ま、待ってください」
慌てた浦見が、周囲を見回す。人がいないか確認している様子。何のために?
奇行は続く。突然、ぬいぐるみの口にキスしたのだ。
「何やってるんだ?」
「黙ってください」
「うい」
いつの間にやら、浦見に強い口調で命令されると、無条件で従う身体になってしまった。
次は何をするつもりか。無言で動向に注目。
彼女は金魚の唇を、俺の右頬に押し付けてきた。
「……お返しです」
顔を伏せて呟いた直後、浦見は踵を返し、小走りで家の中に駆け込んだ。
「……」
リアクションする暇も無かった。呆然と立ち尽くし、金魚にキスされた頬を撫でる。
……これは、ファーストキスにカウントされるのか?
◇満月と他殺志願者
「おひさ〜」
一週間後。いつもの喫茶店で浦見を待っていたら、姉の方がやってきた。
「……何しに来たんだよ」
眉根を寄せて尋ねると、浦見姉は表情を曇らせる。
「『親しき仲にも礼儀あり』って言葉、知らないの?」
「俺とお前は親しくない」
「え〜。ショックだな〜」
へらへらと笑う浦見姉。相変わらず、どんな空よりも空々しい。
「質問に答えろ。用件は何だ?」
「特に無いよ。ただ顔が見たくなっただけ」
「……俺のこと、好きなのか?」
ウケ狙いの質問。
この一言で、以前に浦見姉は爆笑した。それを、健気な俺はちゃんと覚えていたのだ。
しかし、残念ながら爆笑は起こらなかった。
代わりに返ってきたのは質問。
「そうだと言ったら?」
「……は?」
「なんちゃって」
疑心の拡大を阻む、素早い否定。不自然な処理が、却って違和感を強める。
「もう行くね。あの子、そろそろ来るでしょ?」
返答を待たず、立ち上がる浦見姉。
なるべくスムーズに会話を切り上げようとする、ショボいAIみたいな声だった。
店員の冷眼など全く気にせず、浦見姉は店から出た。
【そうだと言ったら?】
あれを口にした瞬間、歯車が狂った気がする。
……そうだと言われたら、何と返すべきだったのだろう?
一分と経たない内に、浦見が現れた。先ほどまで姉が座っていた席に腰かける。
「どうかしましたか?」
「……何でもない」
何故か、俺は浦見姉と会ったことを隠した。